ぼくが息子をなかなか誉めなくなった理由

P1100434.JPG“子どもは誉めて育てなさい”といいますが、近ごろ僕は息子をあまり誉めません。どうしてぼくが誉めなくなったのか?について書きました。


ぼくが息子をなかなか誉めなくなった理由

■叱って正すより誉めて伸ばす。
それまでなにも難しく考えずに上の言葉を信じていた僕が、ある日、「ちょっとまてよ?」とブレーキを踏みました。たしか昨年の冬ぐらいから。
世の中には誉める技術があり、僕もこのブログでその一部を紹介しています。確かに誉める事は大切だけれど、誉めることにあまり気を回ししすぎると、自分の本当の気持ちがかき消されていく気がしたのです。
たとえば、息子に家事の手伝ってくれと言います。それを息子がやってくれました。以前はそこで「ちゃんとお手伝いができたな。お兄ちゃんだな。」誉めてました。ここに今、違和感がある。
■ぼくの違和感
だってぼくは息子に家事の手伝いをお願いして、それに息子が応えてくれた。そうであれば、ここは息子に感謝を伝えたい。これごく自然な流れだと思うのです。
「ありがとう。
 ナオが手伝ったおかげで洗濯物を早く干すことができた。
 外は暑いからほんと助かったぞ。」
これがぼくの正直な言葉です。誉める言葉よりもこのような感謝の言葉の方がずっと子どもに届くと思うのです。
■誉めないコーチング
しかし誉めないことというのは、コーチングとして正しいのか?と思う方もいるかもしれません。じつはコーチングの世界でも誉める事への警告をならすプロコーチもいます。
ワイズコミュニケーション代表の菅原裕子さんは書籍(上司と部下の人間学 コーチングの技術[講談社現代新書])のなかでこのように述べています。

私は親にコーチングを教える際、「子どもを誉めてはいけません」と注意を促します。多くの親は、「子どもは誉めて育てろというのが常識だ」とためらいを露にします。

(中略)
つまり、より前向きな本人の成長を望む目的のために、好子を使った強化は行われるのであって、それ以外の目的のために使われるべきではありません。
ところが私たちは、相手のためではなく、自分の都合や自分の利益のために相手を誉めることがあります。しかし、それは褒め言葉を使った「支配」であり、ときには「ご機嫌取り」でしかありません。そして対象者は、それを鋭く察知します。

–『上司と部下の人間学 コーチングの技術』より抜粋–

ここで出てきた「好子」とは、ある行動を強力に引きつける「褒め」や「褒美」をいいます。菅原さんは誉める側の都合で誉めや褒美を与えることの危険性を示唆しています。
もしかしたら、菅原さんの話をきいてドキッと感じた方もいるのではないでしょうか。ぼくはその一人です。
振り返ってみると、日常生活における親が子を誉める場面って、そこに「誉める側の都合」が多くあることを認めざる得ません。それがたとえ<子どものため>であってもそれを感じたのは親ですから、やっぱりそれは親の都合になってしまいます。
■誉めをどう変えるか?
ではそんな誉め言葉を僕はどう変えていったのか。それはけして難しいことではありませんでした。。
ぼくが子ども誉めるべきことの多くは、だいたい「納得・共感・感謝・敬意」のどれかに当てはまりました。
だから自分が子どもから受けた厚意に対して、自分の気持ちにしっかり気づき、あとはその正直な気持ちを「誠実な言葉」で伝えています。
どんな言葉がいいか?とかどう伝えるべきか?の知識はなし。ありのままの言葉です。それだけが子どもの心へしっかり届くとぼくは思い始めています。
■誉め好子の問題点
もしかしたらこれまで誉めていた場面において、ぼくらの正直な言葉を選ぶより、単に誉めた方が気を良くして次も動いてくれるかもしれません。でも僕はそれがいいとは思えないのです。
その先々で子どもが誉めの支配に気づいたら、恐らく子どもは親を信用しなくなるでしょう。まして突拍子のない考えも、誉めてきた親には言わないはずです。
また誉めを好子に添えられた子は「誉められないからしない」ともなりがちです。そして誉められることが価値判断・行動基準となります。
これではその先々で“自分がしたいことって何だろう?”という人の根源的な問いにぶつかったとき、その答えって心の中に見つかりにくいのではないかと思うのです。
ぼくは自分の正直な言葉を息子や教え子たちにしっかり届けることが、長い目でみればずっといい関係を築いていけると思っています。

53段:ぼくがカプラで作った階段。「ねぇ凄い?」とヨメに言っても、全く誉めてくれませんでした。むしろ呆れ?