「孤立、命を絶った教師」を読んで…

24歳の女性、半年の教師生活。なぜ、命を絶たなければならなかったのか?教師を育てるのも教育の要なのではないでしょうか?



【朝日新聞・10年07月19日】

何が先生を追い込んだのか?

この記事を目にしたとき、思わず目頭が熱くなりました。2004年9月29日。ある新任女性教師が、学校生活に苦悩し命を絶ちました。

彼女の学生時代は、東南アジアでストリートチルドレンの支援に関わったりととても精力的な方だったようです。それだけに、なぜ?と思わざる終えません。

初日の実践記録には、このようにありました。

4.1とても緊張した。責任の重さを感じると同時に、子供たちを愛していこう、全力を尽くそうと心に誓った。
《記事より抜粋》

彼女が命を絶ったのは、この日からわずか半年後でした。

原因は、学級崩壊。同僚との関係。

学級がうまく成り立たない…機能しない。これは決して珍しいことではありません。新任ならなおさらです。

しかし、責任感が強く教師に夢を抱いていた先生にとって、この問題はどうでしょう。とても耐えられないと思います。

それに誰かが気づくべきだった。しかし同僚との連携もうまく機能しなかった。

結果的に彼女を責めるかたちとなり、彼女は逃げ場も失ったのかもしれません。たった24歳です。初任教師です。

「うまく出来なくて当たり前!」

こうという考えだって、あっても良かった気がします。

学校とはどんな場所だろう?

記事の最後にこんな言葉がありました。

「今の学校には失敗しながら伸びていくゆとりがない。教師を育てられない学校が、子供を育てられるだろうか」
《記事より抜粋》

本当にその通りです。

私は「学校とは子供と教師が学びあう場所。」だと思います。先生が子供に教える場所ではなく、子供から教えられる場所でもある。

管理するされるの間柄ではなく、いつの間にか寄り添う間柄。

これが大切なのではないでしょうか。

その場所の実現に必要なものは、まず、先生たちのゆとりだと思います。ゆとりがあって、質の高い教育が実現できる。私はそう考えています。

子供たちの表情をみて、笑ったり、感動したり、秘密を共有したり。その中で人は教師になる。

教育の原点ってここだと思います。24歳の女性教師、木村さんのような悲劇は、二度とあってほしくないです。