僕がスマホに変えない小さな理由

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「どうしてアイフォンにしないの?すっごく便利だよ?」ちょっと見渡せば僕の身のまわりはみんなアイフォンになっていました。その度に皆が、このアイフォンのメリット、必要性を知らせてくれてすぐに持つように勧めてくれます。でも僕はそんな時代ツールをずっと拒んでいる。時代に抵抗する僕のささやかな理由を書きました。


■気づけば時代はスマフォ
ガタンゴトン。
電車が揺れるたびに人々の体も揺れて、左手は吊り輪、右手はスマフォ。
左のサラリーマンからアイフォンのアプリの話が流れ、右のカップルは寄り添いながらアイフォンで何かを見ていて、前に座る化粧映えしたOLさんはツイッターを人差し指でスクロールしている。時代はすっかりスマートフォン。
そして僕はそれを持っていない。
■便利なのは知っている。
スマフォを持つ人達が賢いことはよく分かる。
3-11震災で首都圏の交通が麻痺したときも、このスマフォを持っている人たちは強かった。GPSアプリで現在地を把握し、最短距離で自宅に帰れた。
インターネットに常時接続できる素晴らしさ。私生活が情報と直結していて、ソーシャルネットワークがポケットに入る奇跡。いろんなアプリを使って、生活シーンで役立てているのも分かる。
その話を聞くと、「それは便利ですね。」と確かに僕だって欲しくなるってなもんだ。
でもね、買わない。
もしかしたら、来年あたり買ってしまい「なんだ!やっぱり便利だなぁ~」なんて言うのかもしれないけれど、それでもまだ僕は買わない。
そりゃその便利さが、僕の身のまわりの何かを変化することとは間違いない。
でもね、やっぱりその便利への変化は怖いんです。
■「使う」より「失う」怖さ。
これは僕がテレビを無くした6年前に気づいた「失うこと」です。
テレビを生活の中からなくすと、流行も、最近の芸人、音楽も分からなくなりました。いやいや、マスマス疎くなりました。そのような情報を失ってしまいました。
でもね、テレビをなくしたことで、失っていたけれど必然的に手に入れたものもあったのです。それは「時間」。それまでテレビに当てていた時間がなくなると、僕の目の前にはかつて想像もできなかった空き時間が広がっていたのです。
僕は、その空き時間を、妻と会話につかったり、深く物事を考えたり、息子が生まれてからは絵本を読んであげたりしてきました。そして僕に与えられた時間の本当の意味も考え始めたからです。
話はアイフォンに戻るけれど、要するに僕が言いたいことは、【日常生活のあらゆるシーンに何でもできちゃうアイフォンがあるだけで、それによって僕の時間がとりあげられるのではないか?】と不安がっていること。かつてのテレビがそうだった様に。そこを危惧しているのです。
■1人で考える時間を
アイフォンという画期的でカッコいい文明機器をポケットに忍ばせて、はたして僕はうまく時間を扱うことができるのかって思うんです。常時接続で誰かと配信しあう環境、それはとても便利だけれど、僕が気づかないところで自身の思考を深める時間が徐々に静かに奪われていくんじゃないか、と思うわけです。
もちろん、これは僕の場合。
そんな1人時間を上手く満喫できる人はいるだろうし、またそういったものを一切必要としない人もいるはず。それは人それぞれ。ただ一人で深く考える時間はどうしても必要なんです。
誰がなんと言おうと。
仕事上、携帯電話は手放せません。でもこれは連絡事項としての最小ツールに留めておきたい。
1人電車に揺れながら、
「あの子(教え子)にどんな声かけをかけようか。」
「三角比の導入をこうしよう。」
「この人の考え方って好きだな。」
そういったぼんやりと考えることが僕の贅沢なひと時。
これからもそんな時間を大切にしていきたいです。

港町古い双眼鏡:ヨメの独身時代からのもちもの。今は息子の遊び道具です。大正時代の品らしく。