教えるよりずっと難しい“可能性”のこと

教えることは難しくありません。難しいのはそこに眠る可能性を表に出すこと。可能性を考えればキリがないんだけれど。はじめて書く子どもの可能性のはなしです。

子どもには無限の可能性がある、と言います。
その通りと思います。
算数から高校の数学まで教えているぼくが、子どもと寄りそう期間、5年、10年、といった長いものになることもあります。そのなかで、ぼくが予想した先々のイメージが、その未来においてピッタリ当てはまった子なんてひとりもいませんでした。まるで予想を裏切ることが計画だったように、子どもたちは変わってくれました。
しかしそこへ到るまでの過程を振返ると、その中にそう変わるべきに至る「無数のサイン」が散らばっていたことに気づかされます。
あるとき話題となったことや、さり気なく交わした言葉だったり、成功や失敗の経験。その時、それらが格別な何かをもたらすわけではありませんが、子どもたちの心の奥底にジッと眠り続け、その先の未来で大きな判断材料の1つとなったようです。
その無数のサインを拾い上げる。
これって教育サービスの源ではないかと近ごろ思います。
「ぼくってどうですか?」
「親ってほんと嫌だな」
「医者ってどうおもう?」
「この映画のセリフ、いいんです!」
「震災を目で確かめたいんですよ」
脈略もなくぽっと出た会話の出だしが、その未来を決める運命的を決めるコンパスになるかもしれない。
子どもたちには、それが導いていくなんて分かりません。まず自覚症状がない。(いや、あってもそれを認められない。)
となると本人らが気づかない夜更けのうちに、可能性を育むような仕込みをしなければならないのか。
でもその前に、肝に銘じなければなりません。
可能性を潰さない。
矛盾しているかな。
子どもの可能性を広げるためにやったことが、実際には可能性を潰してしまうこともあるんじゃないかと。ぼくの存在自体が、多かれ少なかれ子ども中の他人の一部。
その他人が持ち合わせる「信念・経験・一般論」に子どもの可能性を失うこともあるのでは。子どもは人の一瞬の表情まで伺っていたりするものだからです。こりゃ、下手な手出しはできません。そうなると、ぼくにできることは1つしかありません。
「やってみて。それから教えてよ。」
「ほぉ、なるほど。面白い。」
「いいかもなぁ。」
「反対するものは何もないね。」
不自由を、自由にさせる。そのために話に耳を傾けて、見守ってみる。
そこからゆっくりと生まれてきた可能性の芽に、子どもといっしょに気づく。ちょっと時間はかかるけれど、それが長い目で見てよい在り方でした。
「あのとき聞いたことが行動の1歩目でした。」
そう言われると、ぼくもいてよかったと思います。