発達遅れが気になる4才の息子のこと

「療育についてどう思う?」ヨメさんから言われて、ぼくは「いいんじゃない。先生に診てもらおうよ。」と応えました。すこし発達が遅れがちで、いくつかの行動癖がある息子のことを書きました。

現在の息子(4才)の状況

このところずっと息子のことを書いていませんでした。現在の様子はというと、他の子と比べると言葉の成長曲線が緩やか。そして幼いです。

発達障害の有無に関わらず、小学校にあがるまで2年を切ったこの段階で、彼についての違っている部分への対応について真剣に取り組む決意をしました。とりあえず、現在の息子の他の子と違っている様子と現在のぼくの取組みについて書きます。

言葉の種類がすくない。

会話そのものは多いのですが、そこで用いられる言葉の種類が少ないのです。感覚的に4歳児の40%といったところです。何かを伝えるとき、身振り手振りと擬音語で伝えようとします。

【現在のぼくの取組み】 基本的に話はじっと真剣に聞くようにしています。そのうえでぼくが擬音語をなぞって、それを動詞に言い替えています。言葉の使い方が間違えていたら、ぼくがその場で言いなおします。本人に言わせることもあります。ただあまり多く言葉の指摘をしすぎると、話のテンポを遮ります。本人も話すのが嫌になるかもしれないので、最小限に留めています。

質問に正しく答えられない。

「今日は何した?」程度の質問でも「ブロックした。」ぐらいの回答。もう少し複雑な質問になると、まず答えられません。これはやっぱり親として焦ります…。ぼく何才?にも2才と答えたり…オイオイ。

【現在のぼくの取組み】 簡単な質問からはじめて、応えられたらすこしずつ詳しい状況の説明の質問を投げかけてます。といっても4W1H(いつ・どこで・だれが・なに・どのように)程度のもの。だけどマダマダですね。

自分の世界に浸り気味

3歳児のときは他の子と遊ぶよりも、1人黙々と砂場で穴を掘っていました。今はブロックですね(すごく上手と誉められるのですが…)。集中しているとき、声をかけてもまず聞こえません。

【現在のぼくの取組み】 完全に自分の世界にドップリ入っている時、声をかけても聞こえません。わざわざ横に歩み寄り、肩をトントンと叩いて声かけをしています。また、ある行動の途中(例えば食事)で他のことをに目が奪われてそっちに夢中になる時があります。「ご飯を早く食べなさい!」と行動指摘を行うと、話を聞かないか、泣き出すか、あるいは渋々従うか、のどれかです。ぼくは出来るだけ「今は何をする時間だ?」っと状況質問を投げかけています。状況を知らせる質問を投げると、ゆっくりではありますが正しく行動修正ができます。

一連の行動に強い拘りがある。

エレベーターのボタンを押す行為や、就寝時に着る服など自分でやりたがります。必ず同じものでなければなりません。

【現在のぼくの取組み】 この強い拘りについて、ぼくからあまり修正を求める行為は行っていません。できるだけやらせています。家庭教師の癖というのもあるのかもしれません。これから少しずつ考えるべきことなのかもしれません。

一度かんしゃくを起こすと手がつけられない。

行動への強い拘りとも関連しますが、一連の行動を遮断されると強い拒否反応を起こし、そして泣き出します。それがあまり1才半の妹とそう変わらない。「ぼく、かなしぃ。ぼく、かなしい。」と泣きながら訴えます。

【現在のぼくの取組み】 かんしゃくを起こしたときには「泣くな!」と怒鳴らずに頷きながらじっと様子をみています。「ぼく、かわいそう。ぼく、悲しい。」と訴えた時は「そうか、ナオはかわいそうだね。悲しいんだね。」とそのままま言葉を返し、感情を受け止めるようにしています。

頭の中のいろんな息子のことを、はじめてこんな風に書いてみました。ずいぶんとスッキリ整理できました。ただこれから彼のサポートを考える上で、ぼくがちょっと肝に銘じていることがあります。それは…

問題は、彼自身の中にはない。ぼくらの中にある。

 

というもの。親の育て方が問題だったという意味ではありません。今、ここに挙げた彼の気になる点というのは、すべて“ぼくの感情が描き出したもの”ということです。他の子と比較した中で問題視はじめたことなのです。

でも当の息子本人の中に問題は全く存在してないのです。それは生まれもった特性。それが彼にとって100点の状態なのです。

よいよい援助をしよう

もう何年も家庭教師をしてきたぼくが、おそらく一番恐れているものは「親フィルターの不安が呼び起こす問題視点」でしょう。これはほんと強敵です。

ちょっとした些細な問題行動にも反応してしまう。それが次第に<この子は問題だらけ>に見えてしまう。ぼくはそれを仕事をとおして痛感してきました。本当は違うはずです。

ぼくたち親が”問題がわかる物差し”を持ち込んだつもりが、“問題に見える物差し”をもちこんだ。

ただそれだけ。学力試験の偏差値はその分かりやすい代表例かもしれません。

ただ残念なことに、子をもつ親の大多数はこの“問題に見える物差し”に囚われるでしょう。そしてぼくもヨメも例外なく囚われています。

だからこそ、ぼくは『問題に見えてしまう視点』の事実を受け入れつつ、また自分たちの行動解釈を変えたいです。

「彼がこの先の社会生活を過ごしやすくするため、出来る範囲内でサポートをしてあげよう」

問題を正すんじゃなくて、共に幸せになるための折り合いの付け方をまなぶ。そんな感じでいいんじゃない、とぼくは想いはじめました。

おしらせ
普段このブログはコメントを受付けておりませんが、この記事についてはいろんな方々の意見や情報を伺いたいと思いコメント欄を下の方に設けました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です