“わが子視点”で捉える僕の新たな試み

船着き場.jpg「教え子たちがみんな“わが子”だったら?」そんな仮定の下で、授業を考えると「身につけさせたい」にたどり着く。授業の中で密かに動き出した僕の親心について報告します。


■「わが子へ与えたいものって何だろう?」
僕はそんなことをよく考えます。
莫大な財産を!なんて言いたいけれど、残念ながら通帳の貯金残高は……だし、残念ながら夢の中ですら大地主でもありません。
だから僕が息子や娘に与えられるモノって、日常生活で撮った彼らの写真とか動画とか。そして家族で過ごした楽しい思い出。まぁその程度です。
でも。
僕が生きる限りの中でモノではなくてわが子にしてあげたいことは、ごく一般的な親たちの考えと変わらないんじゃないかと思います。それは
「生きる上で役立つことを身につけさせたい。」
親として当たり前のことなんです。それは簡単な自問自答でいえば、
「この子が何らかの不幸で
 身ぐるみはがされて一文もなくしたとき
 きっと役立つ考え方や技術はなんだろう?」
かなり大げさな問いで、そうなる確率は極めて低いのは分かるけど。要するにどんな状況におかれても、幸せになれる力って何じゃい?って感じでしょうね。
そんなことを僕は時々ぼんやりと考えます。
■僕がやるべきサービス
ここから僕の授業の中で感じたことです。
僕の教え子たちと授業を重ねていく中で、彼らが他の子と同じようなことで悩んでいることに気づきました。
・机が片付けるのが苦手。
・段取りがつかむのが苦手。
・まとめるのが苦手。
・スケジュール管理が苦手。
・客観視することが苦手。
これらは算数数学が苦手な子に共通する悩みなのかもしれません。
算数数学は、整理して組み立てる学問。上に書いたような日常的な行為って整理と組み立てです。だから算数数学が苦手であれば、このようなことも苦手であることは十分あり得ることです。
でも僕が彼らに与える教育サービスは「算数数学を分かりやすく教える」です。これが言わば事業の定義。だから僕はこれまで、机の片付け、段取りには触れませんでした。彼らの身の回りのことまで、僕が言うのは良くないことと思ったからです。
■親のように感じてみて
ただこの事業の定義「算数数学を分かりやすく教える」を、ちょっと考え直してみたんです。そもそも親達は、本当に算数数学ができる子になって欲しい!と思っているのか?
まさか「21世紀を代表する数学者にしてほしい!」と思っているはずはなく。算数数学が目的ではなく、親が本当に考えているのはもう少し向こうのこと。社会に出てからに不安があって、今、算数と数学を学ばせることなんですよね。
そこで僕はちょっと事業の定義を変えてみたんです。
「算数数学を分かりや…」ではなく、

「算数数学の学びを通じて
 わが子が生きるために役立つ力を身につけさせる。」

一見ありがちなコピーですが、よく考えてみるとこれはおかしい。下線部のわが子。ここは正確には「子ども達」でなければならない。だって僕が教えているのはわが子ではなく、社会的には他人の子です。
僕はその子達をあえて「わが子」と捉えてなおしてみました。
そして僕が息子に与えたいことを、当然、彼らにも与えたいと思いはじめる。
一緒に住んでいる小さいわが子と、離れて暮らしている大きなわが子。言わば空想です。これは。
でもそれがとっても面白い。
世界が違って見えるんです。
一変してしまうんです。
■わが子と過ごす時間は短い
親的な立場で授業を考えると、算数数学の授業の中で、何かもっと役立つことを身につけられないかなぁと考えてしまう。
僕の朝の日課、小さな息子の保育園お送りで、シャイな彼と挨拶ゲーム(道行く人と気持ちよく挨拶をするというもの)なんてことやっているんですが、そういった何かを通して、何かを身につけるみたいなこととか。
もともと「彼と過ごす時間は短いから」と思って始めたことなんだけど、そういったことも大きな息子や娘たちと授業の中で始めたくなります。算数や数学を学びながら、この先で役立つ考え方やスキルをちょっと取り入れてもいいんじゃないかって。だって彼と過ごす時間は短いのだから。
■簡単なことから試み
そんなわけでそれぞれの授業の中で新しい試みをはじめています。例えばこういうもの。
まずは「手帳をもつ」ことが第1歩。
そして手帳に僕の宿題を書き込むことが第2歩。
その書き込みを見て宿題をやれたことが第3歩。
たったこれだけのことでも、大切なことを1つに書き留めると楽だなぁ、なんてことが実感ができるとおもいます。あまり慌てずにそれが出来たら…それが出来たら…という風に、子どもたちの負担がないように進めたいと考えています。

港町港町:カプラで僕が作った作品。街並を表現するのにピースを節約して作りました。次は広場を作りたい。