サポートの手をなくす−最終ゴール


家族の立場で定例的にわが子の学習サポートを通じて、「学習サポートのゴールって子どもがしっかり学習できるようになる」が終わりではないんだなぁと思いはじめました。

わが家の話です。
小学生だった息子に対して臨時的に学習サポートを行っていましたが、中学生になると教科数が多くなりあれこれと定例的なサポートが必要になりました。

やってみるとわかった定例の大変さ。

臨時的のサポートは、本人の必要に応じてやるだけです。それもこちらの時間がゆるす限りでした。しかし定例的なサポートには、必要とされる状態がずっと続きます。

例えばわが家では、息子が学校で習ったことをぼくが確認します。本人の理解度をつかんで、分からないところを教えます。また年間の定期考査への学習計画をたてます。日々でてくる必要な提出課題(時間割)をクラウドで把握して、一緒に取り組むこともあります。それ以外の細々とした確認等もやっていると…サポートは終わりがない。

定例だから「終わりがない」のは当然。でもこの状態がずっと続くって、ほんとしんどいんです。

もちろんぼくも、やれることはやってあげたい。ただサポートがずっと(永続的に)必要とされる状態は、サポートする側が休めないことなのです。これも問題です。

そこで思いました。

サポーターがなくてもうまくいく状態へ

これなんです。大切なのは。
特性にあった学習の仕方への到達のメドがたったら、そこに協力する人たちの手を外しても学習ができる仕組みに置き換える。それもできるだけ早く。

つい「親だから永続的にサポートするのは当然」という思い込みがちですが、サポートの最終ゴールは、誰もが無理のない状態でいられることなんだ、とわが子のサポートで実感しました。

近ごろ親御さんへ「親ってサポートをするためにいるんじゃないんですけどね」と話してます。親御さんたちは「みかん先生、同感!」と笑ってくれます。

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