発達障害のお子さんをもつ親がモヤモヤする「世間の言葉」のまとめ

発達障害として配慮が必要な子の親であるぼくが、これまで経験・体験をもとに発達障害(学習障害)についての「ちょっとモヤモヤする言葉」をまとめました。

ここで紹介する言葉は「ぼくが受けてきた言葉」と「その他の親御さんが受けてきた言葉」の両方です。言葉を発した側は悪気はありません。それどころか大変気づかっています。だからこそ、こちらもそのモヤモヤを発することができない。それを踏まえた上で、どうぞごらん下さい。では、参りましょう。

「見た目、全然、分からないね」

「うちの子、発達障害なんだよね…」とカミングアウトすると、よく言われます。こっちとしては何回と言われているので慣れていますが、何気にチクッって心が傷むんですよ。

この言葉、ぼくには『(本当は異常だけど)見た目、分からないね』と聞こえる。相手にそんなつもりはないです。こちらの思い込みでしょう。しかし「見た目…」を読んでみて下さい。そう聞こえませんか?

【この言葉を発した人への提案】
できればこのとき「配慮」の手だてを示して欲しいですね。「具体的にどういった障害なの?」「そうなんだ。何かこっちが気をつけることある?」と一歩踏み込んで欲しいのです。カミングアウトするということは<困っているんだ>のサインです。そんなひと言が本当は支えられていると気持ちが楽になります。

「大丈夫。きっと治るよ」

この言葉には誤解があります。発達障害は<病気>じゃありません。<障害>です。だから療育も含めて基本「治る」ものではありません。

ぼくは「大丈夫。マシになるよ」の方がまだ気持ちいいですね。ここで、治ると言われると『障害が理解されていない』という孤立感を味わいます。

【この言葉を発した人への提案】
きっと優しい心遣いで言ってくれていると思います。そのお気持ちは嬉しいです。ただ障害をどこか「悪いもの」「哀しいもの」と思っていませんか。私たちは幾分子育てにおいて苦労をしていますが、それが哀しいものとは思っていません。人が『悪い・哀しい』と思うと、私たちは哀しくなるのです。

「教育(躾)のせいです」て言うな!

ガツン!と書かせてもらいました。ここで我々は子育の生気を吸い取られますね。1番厄介です。だから今ではこのようなことを言う人には、まず子どもを近づけないようにしています。説明してすぐ理解できるものでないですから。

言うまでもなく、これは躾の領域の話じゃありません。言わなくてもキチンとできる子がいて、言ってもできない子がいるのは如何に?って話ですよ。

【この言葉を発した人への提案】
躾の大切さは十分承知しています。全ての人間が教育や躾でコントロールできるものではありません。一部の子どもたちは、色んな情報が飛び込んできて反応したり、沸き出る知的好奇心を押さえられなかったりします。
そういう子をそのままにしていいとは言いませんが、そういう子が伸び伸びと生きていける環境を整えることも教育の1つじゃないでしょうか。再考をお願います。

「やらせるのは虐待です」

学習障害の子に対する考え方の1つとして「できないことをやらせるのは虐待です」専門家たちが助言しています。学習の受け皿がない障害ですから、やらせて成果を上げるのは困難。自己肯定感が失われて、二次障害の危険性が出てくる。これが専門家の主張です。

しかし学校の学習は先に進んでいき、この子も参加しなければならない。そこでずっと分からない授業を机に座って過ごすわけにはいかないのです。

【この言葉を発した人への提案】
おっしゃることは分かります。しかし「なぜ、こうでもしてやらせるのか?」に注意を向けて下さい。親たちも「わが子ができない課題」を命じられて困っています。重要なのはここです。

なぜ、この流れが生まれているのか?原因を深く考えて欲しいです。私は学習の受け皿がなくても学べる教育課程があれば、親たちは穏やかになると思います。

「発達障害だから…」

まぁこっちが「学習障害」と言っているのに、周りから言われると心がウズクのはなんでしょう。これも発達障害だからの言葉の裏側に「できる可能性がない」とレッテルをはられているんです。普通と普通じゃない人、みたいな。これ…悲しいです。

【この言葉を発した人への提案】
発達障害というのは名刺みたいなもの。まぁ肩書きですね。名刺に「部長」「社長」とか書かれていて「発達障害」とある程度。その立場なだけで個性は分からない。だから発達障害の人がいてもそれで済まさずに、何ができる?できない?どんな配慮がいる?いらない?に注意を払って、共同でやるところに上手く工夫をむけて欲しいです。

まとめ

ぼくは、自分が親になる以前も発達障害のお子さんと関わってきましたが、この言葉への配慮まで全く気がつきませんでした。たぶん多くの方を傷つけてきたはずです。

今も多くの人達がこれらの言葉を受けて、孤独感を味わっているのでしょう。

少し意識を変えて言葉を投げかけてくれる。それだけで、私たちはそこに希望の光を感じて心が明るくなるはずです。