そこでのディスカッションとは何だろうか?

大学入試の2次試験等では、ある課題を受験者同士のディスカッションが設けられているところもあります。
そんな討論について教え子と話しをしました。


そこでのディスカッションとは何だろうか?

どうしてもぼくらは
ディスカッション(討論)を想像すると
深夜番組にあるような互いの意見をぶつからせて、
言葉で戦うというイメージがあります。
「どちらの方が正しいのか?」
自分の考えにいろんな論理を引っ張り、
情報をくっつけてそれを効果的に論じる。
そのようなものです。
しかしこういったタイプの討論というのは、
その場で相手をねじ伏せることに躍起になり、
本当に互いにとっての有益な時間が想像できない。
それに疑問が残る。
ぼくは子どもと
「討論を通して見えてくる
 本当に大切なものはなにか?」
について話しました。
■ぼくが選考する立場なら
ただの討論ならとくに考えない。
でもね、これは大学入試のひとつ。
受験者同士のものなられば、
そこにある課題の意図はなにか?
やっぱりそこが気になるんです。
もしぼくが大学の先生で、
そこで優秀な学生を選考する立場なら、
こんな人を選びたいなぁ。

・虎視眈々と相手の論理の弱点を叩くのはなく、自分の主張の弱点について、相手の意見を求める人。
・1つの考え方や立場に縛られず、相手と共に答を築こうとする人。
・討論に隠れたタイプの人にも発言の機会に気を配り、隠れた考え方を討論に肉付けできる人。

思いついたイメージを3つほど書いたけれど、大体、こんな感じ。
要するに「自分」よりも、
「課題」に意識をおいている人ですね。
ぼくはそんな人が大学に来てほしい。
そのことについて、教え子も共感してくれました。
■知らないことの討議だったら?
ただ疑問が1つ湧いてきたと
教え子から言われました。
「自分が知っていることなら討論できる。
 けど考えてもみなかったこと、
 知らないことになると討論できない。」
なるほど。
たしかに知っていることなら、
いろいろと言える。
しかし知らないこととなると、
強く言い出せないこともあります。
「でもこういう時こそ、
 面白いんじゃないかな。」
とぼく。
「なんで」
うーん…知らないから面白いとしか言えない。
そのつまり…具体的にはこういう感じかな。
「ぼくなら正直に聞くかな。
 『ぼくはその○○というものを知らないのですが、
  誰かそれを分かりやすく教えてくれませんか?』
 てね。」
「それをしたら、
 こいつ知らないと思われます。」
「いいじゃん。
 相手の言葉から
 その『○○』とは一体どんなものなのか?
 みんなで明らかにする。
 その言葉の意味を共有することが
 討論の第一ステップだと思うんだよ。
 知らないのに討議を深化させる。
 これって重要だよね。」
なんとなく知っていることよりも
知らないことのお題の方が、
真摯に相手の言葉に耳を
傾けやすくなると思うのです。
■試験課題「ディスカッション」から時代を読む
ぼくが大学生の頃から、
学生間でもパソコンを持つ人が現れました。
インターネットで調べれば何でも分かる。
そういう時代到来にぼくは
「これからは考えなくても、
 答がそこにある時代なんだなぁ」
と思ったものです。
今の子たちは、多くをPCや携帯端末機で検索します。
その検索技術にぼくも舌を巻くこともあります。
しかしその一方で、
概要的な知識にとどまり、
自分で深化させる機会がないな。
ともおもうのです。
もちろんこれは時代の流れであり、
決して彼らに非はありません。
みんなそうなのです。
しかしその時代の流れに沿えば、
思考をオープンにして、
他人と物事を深化できる人は
極めて重要な存在になるでしょう。
もしかしたら大学の先生方は、
この討論の中でそんなこれからの人を
探しているのではないか?
と思うのです。