叱る子育てか、叱らない子育てか?

ヨメさんがインターネットの書き込みをじっと見ていました。
一体、何を見ているのだろう・・・と覗いてみたら、それは叱らない子育ての討論の掲示板。息子を叱るべきか?僕の考えです。

ヨメさんに尋ねられて

「ねぇ、どうおもう?叱らない子育てって。」

ヨメさんから詳しく話を聞きました。内容はこんな感じでした。
つい何年か前まで叱らずに誉める子育てが流行ったけれど、近年、その叱られないで育った子達は物事に対して我慢ができない傾向があるというのです。友達を叩いたりすることもあるとか。

ヨメさんは叱らない子育てに、抵抗があるようでした。いけない事はいけない!と頑として貫かねばならないと言いました。ヨメさんは、わが子の子育ての方針をどうするべきか?僕に意見を求めました。

問題とすべきこと

「そうだね…生きていくうえで叱られるという刺激も大切だと思う。
叱られたことがないのは可哀相だよね。」
と話しました。ただ、あくまでこれは個人的な感想であって、正直、まだ分からない。

なぜなら僕の中では叱る有無は問題ではなく、叱る状況、叱り方そのものが問題視されるべきなんじゃないか?と思ったからです。

もちろん、もし叱らないで済んだ子どもだったならそれはそれでいいと思うのです。ワザワザ叱るべき要素を探す必要はありません。ただ人は複雑な社会を形成している生物なので叱るべき箇所は多かれ少なかれ発生します。そこで叱るべきポイントを見落すのは問題だと思います。

叱るということ

叱る行為はコーチングのなかで外科手術、と僕は捉えています。手術ですからこれは大変なことです。なんかちょっと大げさにも聞こえますが、あえてこんな強い表現として心に留めているのは、僕たち大人は子どもたちに対して叱らずに済むことまで安易に叱って済ます傾向にあるからです。

いや、叱るべきことではないのに叱ってしまう。誤った判断をしてしまう。ただの風邪なら自然に治ることなのに、メスを持って手術にかかってしまう感じです。

だから叱ることは慎重になるんです。叱るべき状況を見極めることは勿論、叱る側の心の準備も必要です。叱る側も叱られる側も、精神的エネルギーを消耗することであるのは間違いありません。だから僕は避けられる方策を事前に多く用意するようにしています。

叱るだけが正すにあらず

子どもが電車の中で騒いでしまった場合どうするか?なんてことは僕の日常生活で頭を悩ませることの1つです。電車に乗るたびにアレコレ不安になります。言葉が話せない2才児は、興奮してしまうと手に負えません。それはわが子でも同じです。

しかし「駄目!止めなさい!うるさい!」だけでは、子どもの行為を次第に言葉では抑えられなくなります。叱るが雑音に変わってしまうからです。しかし、こんな状況でも叱るという行為以外に、子どもの迷惑行為が発生することを抑制する方策はあります。

乗る前に

「電車の中ではみんなおりこうさんにしているから、よーく見てみて。ほら、みんなおりこうさんだね。すごいねぇ!」

と状況把握をさせることは一番有効手段です。子どもなりに「すごいねぇ~」なんていった時には、やはり自分もおりこうさんになりたがって静かにします。

また、騒ぎ始めた場合は、すぐに子どもと視線を併せて「静かにするおりこうさんは誰?」とアイデンティティーに訴えかけることも可能です。次の駅で降りて状況そのものを変え、騒いだ行為を振り替えさせることも出来ます。このようにたった電車の騒ぐ行為を制す(しつける)ために叱る以前に打つ手はいくつもあるのです。

上手い叱り方は後味がいい。

これはコーチング技術の中で詳しく書きたいことなのです。それでも叱るべき状況があったとき、僕ももちろん叱ります。わが子でも姪っ子でも甥っ子でも、教え子でも状況が叱らなければならないなら叱ります。

その叱る行為を行う際、念頭においているのは後味がいい叱り方です。それは泡立ちのいい一杯目のビールをグイッとのむあの一口目に近いものです(分かりませんよね・・・この表現)。

とにかく叱ることは、僕にとって安易な行為ではありません。表現を変えれば、叱ることはとても稀な状況にしかなく、感想の「叱られたことがない子は可哀相」という個人的な考えと相反する部分がありますね。