21日ぶりの休日。ゆっくり朝寝坊。

ずいぶんと久しぶりに朝寝坊をしました。
普段は息子ナオの保育園の見送りがあるので、寝坊は厳禁。
また、このところ日曜日も授業に出ていたので、週末もいつもどおり。
このところちょっと疲れていましたが、
10時ごろまで寝てしっかり疲れがとれました。
8時間も寝たのは本当に久しぶりでした。

叱るが少ない時代。柿を盗んで、誉められた話

社会全体が怒ることは多くなっても、叱ることってずいぶん減った気がします。
もしかしたら今の子どもたちは<叱る>という漢字自体、読めなくなってきているんじゃないでしょうか。叱る行為が減ってきて、漢字自体に馴染みがない気がするのです。
僕の勝手な考えですが、今、社会全体が叱るべきところを、怒ることで事態の収束させてる気がします。フッと沸き起こった感情を怒りとして露わにする。なんだか叱ることと怒ることの違いの境界線が、どうも曖昧な気がするのです。
■叱る、怒るの違い
まとめているコーチング法でじっくり書こうかと思っていたのですが、思ったことはさっさとここで書いてしまいますね。怒ると叱るって改めて書くとこういうことです。
怒るとは、相手に対して根底から沸き起こる怒りを露わにすることです。これは極めて個人的なアクションで、相手にぶつける事が目的です。怒る側の気がすむことがゴールです。
一方、叱るは何か?
叱るとは、相手の行為に対して冷静に指摘することです。これは相手の為のアクションで、相手が反省し改めることが目的です。相手に「期待」を伝えることがゴールです。
そういわれてみると、確かにそうだと思う方もいるはずです。
■叱るは人類の技術
叱るなんてずいぶんと古臭いような行為ですが、それは全く違うでしょう。怒ることは人間以外の動物同士でもできます。互いに威嚇しあったりしますよね。あれです。
しかし叱ることは、人間にしかできない行為です。しかも期待がベースにありこれは大変に高度です。そしていい叱られ方をすると、気持ちよいそよ風が吹くものです。怒りにはそよ風はありません。
■柿を盗んだ
ヨメさんのお父さん(義理の父親)から聞いた柿泥棒の話です。
昔、近所の友達と自分の兄と5人で、柿を盗みにいったそうです。自分の兄は木の上に登り、下に友達と4人に柿を振る落とすという作戦です。柿の木の下に作戦を実行しはじめたら
「誰だ!柿を盗むのは!」
と柿の持ち主に見つかりました。一斉に、木の下にいた友達は逃げ出しました。しかし幼いお父さんは動けませんでした。柿の木に登っている兄を置いていく事はできなかったからです。
柿の木から動けだせない兄弟が。柿の木の持ち主は恐ろしい顔をしてやってきました。ものすごく怒られると思ったそうです。しかし意外でした。
「柿を盗むのは悪いことだが、お前らは逃げなかった。
 逃げなかったのはとても偉い。だからお前らに柿をくれよう。」
兄弟でたくさんの柿を貰ったそうです。
■いい叱りは思い出となる。
このエピソードを聞いてあなたは、いい話だと思ったはずでしょう。盗む行為は叱られたけれど、逃げなかったことはしっかりと誉めています。
もしこれが柿を盗んで、叱られた!という結末だったらどうでしょう?
義理のお父さんの思い出とは残らなかったはずです。そして僕もここでこのエピソードを書くことはなかったでしょう。そうなんですね。いい叱りは心に懐かしい思い出として刻まれるのです。そして人の温かさや寛大さは、人を勇気づけるものです。
いい叱り方について、また、書きたいとおもいます。

出来ないが出来るように!じゃない。教える心得。

「出来ないことを、出来るようにさせる!」
教えることってそういうことと思っていました。
でも近頃、そうではないと思うのです。
「出来ることを広げる。」
これなんですよね。
例えばこういうことです。
二桁の割り算ができないから、出来るようにさせる!

ではなく
一桁の割り算が出来たから、二桁の割り算まで出来ることを広げる。

どちらも新しくできることが増えるわけですから、結局は同じですよね。
でも違うんです。2つは根本的に異なることだと思うのです。

板書は写さず、ポイントを書き留める。ノート術。

ノート術を教えることはとても難しいです。
情報をどのように整理するか?というより以前に、
情報をどうとらえるか?という感覚がまず必要だからです。
ノートの機能は
・写す(メモする)。
・まとめる。
・解く。
・検索する。

というものがありますが、これをちゃんと理解できる子そういません。
クラスに1人か2人かぐらいだと思います。
■2つの機能を使うT君
弟子にしてくれと言ったT君は、1年ぐらい前からノートのとり方がドンドン上手くなってきました。特に化学はうまいですね。ルーズリーフと普通のノートの使い分けもよく出来ています。
メモするか?
まとめるか?
という2つの視点たち、そしてどの情報をキャッチしてどの情報を捨てるのか?そこも分かっています。
■化学を聞く。メモする。
今、T君の学校の化学の先生が、ほとんど板書を書かないらしく、教科書に載っていないことをドンドン口頭ではなすそうです。黒板をメモ代わりにペラペラと書くのですが、これがクラスメイトから大不評。
試験で何が出るのかを話してくれない。
というのが殆どの意見だそうです。しかしT君、なかなか面白い男です。
「化学の先生、最高なんですよ。
 教科書に載っていることなんて言わずに、
 そこには載らない大切なことを話すんです。
 それをぼーっと聞いていて、
 書き留めるべきところだけノートに走り書きしています。
 板書を映させる先生って駄目ですね。
 あれってただの作業です。」
彼は何とも厳しいことを言うのですが、これは良くわかっている証拠ですね。

学校はこんな場所であってほしい。

「へぇ〜こんな問題も出来るようになったんだ。
 なんか、かんか言って、成長しているんだねぇ。」
というようなことを正直に僕が感心していたら、
教え子から
「ねぇ!そうでしょ!
 そう言ってくれるのは先生だけだよ。
 学校の先生は、こんなのも分からないのか!だもん。
 ほんとやる気なくすよ…」
と答えてくれました。
確かに質問に言って開口一番「こんなのも!」と言われたらやる気はなくなりますね。
学校ってなんだろうって思いますよ。
学校は親にとっては「学ばせる」義務だけれど、
子どもにとっては「褒められる場所」であってほしいですね。
だってそうじゃないですか。夕飯時の会話で、
「ねぇママ。今日、僕は5回も褒められたんだ!
 お掃除が上手だねぇって言われたし、
 返事がハキハキしているって褒められたし、
 算数の問題の質問に行ったら、
 向学心あふれているね!って褒められたんだ!
 あぁ褒められすぎて困っちゃったよ!
 明日もたくさん褒められるかなぁ〜」

という言葉を聞きたいですよ。
あぁこの子は学校が好きなんだな。
ドンドンいいことをしたいんだなって。
そんなに褒めてくれる学校の先生に出会いたいものです。

弟子になりたい!と言い出した教え子。弟子は僕だ。

どうやればうまく教えられるの?
と教え子から聞かれました。高校3年生、彼は大学生になったら家庭教師をやりたいそうです。どのように会話するのか?どのように教えるのか?そんなノウハウを僕から教えてもらいたい、というのです。
「君は十分に家庭教師はできるよ。僕が教えることはほとんどない。」
と言いました。
■具体的な技術を伝授した
「どの教科を学習に着手すべきか?」
たとえばこのような学習戦略の「実施項目の選定」で、彼にはいろいろと教えました。
まずはリストアップ法です。
やるべき学習をひとまとまりごとに並べて、上から下へリスト化するものです。終われば消す、それだけ。極めて単純な方法。これは中学生ぐらいからでもできます。
また、ペイオフマトリックス
これは何をすれば効果が上がるか?生産性に着目し図で表現したものです。効果のないことは徹底的にしない、という視点で考えることを彼に教えました。少し大人な考えです。
そしてウォント法
そして理性で考えるのではなく、本心に聞け!。「今、一番したい教科」を挙げてそれを短時間で一気にやるのです。イヤイヤながらやっても意味がない。いっそのこと一番やりたいことをやれば学習効果が高いという考え方です。
彼は色の使い方も十分熟知しています。
なぜ、3色以上使うといけないのか?まとめるときのレイアウトの基本。そして推移をつかった説明。ここで挙げると書ききれませんが、僕が実施していることの基本を、彼はすでにマスターしています。
■そして弟子は僕だ。
そんな偉そうなことを言っているけれど、本当のことを言えば家庭教師の指導法を僕に教えてくれたのは彼だったりするのです。
彼の何気ない意見や考え。それを僕が聞いて「なるほど!」と思うことも多く、コミュニケーションをしながら互いに解決方向へ向かうというスタンスをとってきた僕にとって、彼は僕の弟子でありつつ先生でもあるのです。
あえて僕が彼に最高の技術を伝えるなら、
「弟子から学べ。」

だとおもいますね。僕自身がことを解決するのではなく、結局のところ彼自身が自分で考えて決断し、そして前に進んできました。それは紛れもない事実。だったら彼が教える立場になった時、同じことをすればいいんです。目の前にいる彼の教え子が<最高の師匠>なのですから。

誤解だ!僕は無欲ではない。欲があるから楽しい。

「先生の個人口座に1億円が振り込まれたらどうする?」
なんて質問を教え子から受けました。しばらく考えた僕が出した回答は
「たぶん、死ぬまで一億の桁は1がついたままなんじゃないかな。」
と回答をしましたた。その回答に教え子も納得したようす。まぁいくら考えても使う宛てはない。もちろん入る宛てもないけれど。
■無欲ですね!
こんな人間を前にすると、子どもたちは「無欲」と審判を下します。大迫先生は、漫画も読まないし、ゲームもしない、テレビなんて見ないどころか持ってないし。あぁ先生は前も無欲という判決が出ているから、はいはい、今回も無欲ね…と。
裁判長!あぁ、なんと雑な裁決でしょう!弁護士を呼んでください。という気分です。
■いらない物ばかり
たしかに僕は30年ほど生きてきて、物欲というのはスッカリ枯れてしまったんだけれど、でも欲しい知識や欲しい技術などは枯渇するどころかドンドン盛んになっているように気がします。
昨日も電車に乗りながら
「あぁ、あと何年生きられるんだろう?それまでにどれほど身に着けることができるのだろう?」
ということを考えてしまいました。もちろん僕が言う勉強というのは、教科書を見て学ぶということではなく、もっと別の学びをさしています。
■みんな貪欲だ
物欲にせよ、知識欲にせよ欲の種類は違うけれど、やっぱり欲のある人生は楽しい。また、その欲をどのように生かすか?ということも僕は人生を生きるうえで大切なことだと思うのです。
それが仕事になればもっと楽しい。それは間違いない。
僕はそう思います。

教育で培う3つの力ー生きる力って具体的になに?

教育に必要なのは学歴ではなく生きる力だ!
と言うけれど、ではその「生きる力」ってそもそも何なのか?それを明確に回答してくれた人を僕は知らない。
僕は学歴主義に賛成する立場ではないが、学歴というのは極めて具体的なので人々がとりあえずそこに進もうという考えは良くわかる。不況で就職が厳しい状況を考えれば、学歴は1つの大きな武器になることは間違いない。
■抽象的な生きる
ただそれに対して「生きる力」というのは、極めて抽象的だ。
たとえば、今この文章を読んでいるあなたは生きているから読める。だったら生きる力(=生命を維持する力)は多かれ少なかれあるわけだ。
僕はホームレスをみると生きる力を強くヒシヒシと感じるんだけれど、その生きる力を学びたいなら算数や数学を学ぶことなんて止めてしまって、ホームレスの方々にならって生きていく力を実体験で学んでいく方がずっと効果的とおもう。
■生きるために必要なこと
いや、そういうことではないのだ!と生きる力を支持する方は言う。
「自然を愛したり、自分で物事を考えたり、だから勉強をする。」
気持ちが十分にわかるだけに、何かとても惜しい。そこで僕はずっと考えてこんできた。
シンプルに、シンプルに、シンプルに。

「生きるために必要な力とは、一体なんなのだろう?
 これがないと生きていけない技術を総括すると、
 それはどういう力を示しているのだろうか?」

どれくらい考えたがもう始まりさえも忘れてしまったが、
これが最近になってやっとアウトラインが見えてきた。
いろんな余分なものをそぎ落として、生きるために必要とされる力。
それは大きく3つに集約される。

・想い描く力
・耐え凌ぐ力
・解決する力

長く考えたわりにあまりにも普通の言葉たちで、少々がっかりされたかもしれない。
ただし、この3つの力さえあれば誰でもごく普通に生きていけると僕は自信を持っている。
■想い描く
「大人になったら何になるの?」という大人の質問に
「お花屋さんになるの。」という子どものこたえ。
誰にでも経験があることだが、大ざっぱに言えばこれが「想い描く力」の始まり。
ずっと先にある一枚の絵を自分の心のキャンパスにちゃんと描くこと。
夢なんて持たない子もいるぞ!という反論もあるだろう。
ただ今日の予定やら、3ヶ月先の目標やら、テストの点数やら、欲しい車やら、そう言ったものも想い描く力にあたる。
また、自分の身の回りに見えてきた問題や心の障害など、こういったものも僕は「想い描く力」の範疇に入れている。勝手にわき出てくる1枚の絵もあれば、自己設定する1枚の絵もある。絵があれば子どもたちはどこに進むべきか、ちゃんと分かる。
決して迷わない。
■耐え凌ぐ
想い描くことができた絵がその向こうにある。その夢の場所にない間は、現実の世界で呼吸をしなければならない。
そこには多くのストレスや予期しないアクシデントがある。
そういった外敵や環境に対して負けない力。
この力は、子どもを育て始めてから必要性を強く感じはじめた。
この力は学習で身につくというよりも、日常生活で次第に身につく力だとおもう。
家庭内のしつけとか、1つは耐え凌ぐことだとも思う。
■解決する
一枚の絵を想い描けて、身の回りの環境に耐え凌ぐことができても、目的の1枚の絵に近づけなければ意味がない。ずっとそこに留まっているだけでは、何も変わらないのだ。
この前に進める力が「解決する力」。
この力は多くが学習で身につくものと考えられる。
たしかに海外で生活するには語学力は必要だし、家をローンで買うには計算力が必要だろう。
しかし実際には、科目的な教育だけでなく、日常に起こる問題の解決力もこの範疇に入れている。解決する力は何を手に入れたか?が重要になる。
■生きるって自分で転がすこと
考えてみると当たり前のことなんだけれど、近頃、子どもたちを振り返る時この3つをイメージするようにしている。教えてテストの点数10、20をあがるのは難しくはない。
しかし本当に重要なのはそこではない。
僕が教えた場所が10点あがるより、僕が教えなかった場所でも10点ほど上がったままの方がいいに決まっている。要するに自己解決できれば、それに超したことはないのだ。
僕が転がすのではなくて、子どもたち自身が転がりだす。

僕の提供する教育サービスって、
こういう形を目指すべきじゃないか?と思いはじめている。

やれば出来る!は止めた方がいい。方法論コーチング

「やればできる!」という言葉は、
高校生が使ってはいけない言葉のひとつ。
この言葉の真偽はともかく言葉そのものが具体的じゃない。
高校生ならハイレベルな思考でいこう。
「どこを、どのように、どのくらいかけて、どの程度やれば、
 どれくらいできるのだろうか?」
さっきの言葉が少々具体的になっただけだけれど、
まぁこれがいわゆるハイレベルというもの^^
どこ=エリア
どのように=方法
どのくらいかけて=時間
どの程度=完成度
どのくらい=成果
ということ。
数学風に書くと
エリア×方法×時間×完成度=成果
となるのかもしれないけれど、
まぁこの方程式もあまり意味はない。
高校生はやるべきことが多い。
すべてに全力を注ぐことが必ずしもいいとは限らない。
まずは1つ1つを絞り込んでいこう。