僕はこれまでみてきた「算数・数学のセンスが抜群の子」に1つ共通していることがあります。それは彼らが目の前の問題を圧倒的なスピードで解くのではないということ。
“優れた数のセンスをもつ子は、何がちがうのだろう?” の続きを読む授業で僕も成長する。教えることは学ぶこと。
授業って生き物です。
僕はいつも思うのですが、たとえば連立方程式を教えていても、毎回、アプローチは異なるんです。同じ授業は二度は絶対にないのです。
「こんな風に授業をしよう!」と大雑把な流れを念頭に入れるのですが、一度授業が始まるともう計画なんて役に立ちません。
僕が発すると子どものアクションがある。そして僕がすぐにアクションでかえす。すべては瞬間の判断の積み重ねなのですが、そこに僕の力では決して開けることができなかった次の扉があるんです。
「え、そこ質問する?」
という質問がおこる。しかしそういった質問は数理の核心ついています。僕も一瞬では答えられない。
■未知の扉へようこそ
そこで必死になってイメージを広げます。その時、ちょっと自信がない答えが浮かぶ。確信がない。ただ言葉で発した瞬間に、新しい扉がぐわ~って広がるんです。未知なる扉が開くのです。
結局、ははじめイメージしていた授業像はなく、終わってみると想像もできなかったものになるんです。しかしそれは失敗ではなく、成功なのです。
「あぁまた勉強させてもらったなぁ~」
なんて思います。家に帰ってまた、体系化や板書を見直し、流れを考えなおす。そしてまた1つ賢くなる。
■キラリを掘り起こす。
それにしてもボイスレコーダーに入れていると、そのときの流れをまた冷静に聞きなおすことができるのでいいですね。
授業の中で一瞬だけ<キラ!>と輝いたひらめきが起こることがあるんです。しかし僕は授業を進めなければなりません。
それが何なのか分からないまま時は過ぎていく。会話の中にズンズンと埋もれていくんです。ほんとうはそこで1分ぐらい長考したい。でも子どもは待っていますからそれはできません。
そこでボイスレコーダーでとったその会話の流れを、もう一度再現してみるのです。するとそのときの思考の流れが再現されます。これいいですね。何でこれをしなかったのだろう?と思います。
■最後に。
ここまで読んだ方は不思議に思うかもしれません。
「そんなに教えるのって面白い?」と。
面白いんです。
とっても面白いんです。
学習は質と量が大事!は本当か? 学習コーチング。
学習の効果について長年信じられてきた計算式があります。
それは以下の通りです。
学習の質×学習量=学習効果(成果)
この考え方は質の高い学習方法で、たくさんの学習量をこなせば効果があるというものです。これは会社組織でもパフォーマンスを上げるなんて言葉を変えて、使われる計算式です。
確かに質の高いものを量産できれば、優れた成果は得られるのは分かります。ただ、この考え方は機械であれば100%当てはまるが、人間においてはあまり意味がない式だと思うのです。
■単語を覚えた実験
実際、試したのです。ごく普通の覚え方で、ある男の子に短時間で単語を覚えてもらいました。そして同じような単語を別の日に、長時間でたくさん覚えてもらいました。
もちろん、覚えるのに長時間かけたときの方が覚える量は多かったです。しかし単語1つにかける覚える時間は明らかに長くなっていました。要するに1つの単語にかける学習の質は下がっていたのです。
■心がある。
まとめるとこういうことです。
質の高い学習を心がけても、量を上げれば質は下がる。学習効果は長丁場になれば上がらないということです。
機械ではこの計算式は通じるのに、人間だと意味を持たない。なぜ、質は下がるのでしょうか?なんてわざわざ問うまでもありませんね。機械にはないのに、人間にあるもの。それは「心」だからです。この計算式には全く「心」が考慮されていません。
■10時間勉強の内容は?
教え子たちから尋ねられることがあります。
「友達が休日に7時間勉強したというんだけれど、先生、どう思いますか?やっぱりこれぐらい勉強しなきゃいけないのですか?」
その度にこの様に話しています。
「そりゃ僕には分からないね。だからその友達に聞いてみたらどうだろう。7時間、何を勉強したの?そしてその中で何を学んだの?ってね。その答を聞いてから、自分で判断したらどうかな?」
結果的に聞いてみたら、何を勉強したかは言えましたが、何を学んだか?は全く出てこなかったそうです。そういうものなのです。
■計算式はいらない。
教える立場からいえば、このような学習成果の計算式を考えることはあってもいいでしょう。
しかし学ぶ立場からいえば、こんなバカバカしい計算式は必要はありません。
そして時間をかけて勉強!なんて思想は忘れ去るべきですね。これは百害あって一利無しなしです。その代わりに常に心にとどめておきたい問いがあります。
何を手に入れたか?
これだけでいいのです。
そこで出てきた答が学習成果です。
自分の声や言葉を検証。授業評価を検討中。
「利用頻度の高いものほど価値がある」
分厚い六法全書と小さな絵本、どちらが価値が高いか?法律家に聞けば六法全書というだろうし、3歳の幼児に聞けば絵本というはずです。これこそ利用頻度による価値。ただ、意外と忘れてがちです。
■体系化も大切だが…
算数数学の体系化は大切です。
それは突き詰めれば突き詰めるほど発見があります。しかし小数の体系化は毎日使いません。小数を毎日教えませんから。頻度で言えば体系化は低いものです。(注:ただ小数を教える際、この体系化は頭に叩き込んでおかないと、子どもの躓きは分かりません!)
では体系化よりも価値あるものは何か?それは効果的板書だったりします。小学生から高校生まで、板書は間違いなく発生するからです。これは重要です。
そして近頃、板書のように利用頻度の高い道具を考えてみたんです。いつも使っているのに、その重要価値に気づいていないものは?まさか、あるわけないですよね。全部気づいているはず…
それがあるんです^^
気づいていないものが。それはちょっと目に見えない道具です。
■見えない「僕の声」
授業で使われる僕の声はすぐに消えます。発したその瞬間に消えます。しかし板書と並んで声も重要でしょう。いや板書は間違えたら消せるけれど、声は出したときが完成品。こっちのほうが配慮すべきことだったのかもしれません。なんでこれまで気づかなかったのでしょう?一番の大切なところなのに。
そうそう。
これまで何を言うか?何と言うか?についてはよく考えていたのです。こう説明すればいいとか、そういうものです。しかしその声が単語イメージとあっているのか?それは確認していませんでした。
声のスピードやテンポ。繰り出す単語の種類。単語のイメージ。
授業を離れた後、ちゃんと検証してみるべきでした。
■ボイスレコーダー
早速、ボイスレコーダーで授業を録音始めました。そして自宅で検証してみました。いろんな発見がありますね。
・声が高い。
・立って説明するとき、スピードが若干上がる。
・くだらない話が子どもの意識に有効にに働いている。
人の声に合う言葉ってなんだろう?とか思ったりするんです。昔は自分の声を聞いたりすると気持ち悪いものでしたが、30を超えてしまうとそうでもないですね。
うわぁ~素敵なボイス!なんて冗談もいえますね。
僕の理想的なコーチ像。みかん先生は誉められない。
子どもたちから尊敬されたい、と思ったことがありません。
尊敬はされなくていいんです。尊敬されることを考え始めたら、むしろ授業は上手くいかない気がします。
子どもたちの良き理解者であり、彼ら彼女らの成長を心から願う1人でありたい。
僕が願うのはそれだけです。
「みかん先生って、普通だよ。
違うところはよく話を聞いてくれるぐらいかな。
僕が勉強できるようになったのは、僕の力なんだ。
先生のおかげじゃないよ。これは僕の力なんだ。」
もしこんな会話が生まれることが、僕の目指すべきゴールだと思います。
そこに<みかん先生の力>とかいらないのです。
ただし、こんな会話が繰り広げていられたら?
「みかん先生の授業って分かりやすい。
先生がいてくれたから私は数学ができるようになった!」
会話は嬉しいのですが、こんな僕には修行が必要です。
僕が誉められちゃいけない。本人が誉められている間は「みかん先生」は未熟です。
LABプロファイル-子どもの良さを生かす授業
子どもの「良さ」を最大限に生かす授業。
数年前までの僕の授業の良し悪しは、算数数学の学習全体として何が一番いいか?でした。でもここ2~3年は大きく変わりました。その子にとってベストな授業に取り組みだしたのです。
7割の正解率が指導の基本型。コーチングメモ。
どんなに算数や数学が苦手であっても、7割の正解率を維持させる。これは指導の基本なのですが、一応、書いておくことにしました。