公式を作る楽しみ。あるなしクイズの力。

「マジカル頭脳パワー!!」というテレビ番組ごぞんじですか。
僕が中学生だった頃、つまり1980年代後半にあった番組です。そのコーナーに「あるなしクイズ」というものがありました。よくご存知の方もいると思います。
あるものと、ないものの間にある法則を探し当てるクイズです。ルールはとても分かりやすく、とても単純なクイズでした。
しかし家族全員で楽しく参加できました。
「なんであのクイズは楽しかったのか?」
先日、ぼけーっと考えていたのです。だっていつもワンパターンなのに面白い。やっぱり不思議です。すると、はっきりと分かりました。あのクイズの中にある面白さは、まさに数学の楽しみと同じだなぁと気付きました。
■法則の発見が醍醐味
クイズは例をドンドン出すことで、よりそこにある隠れた法則を発見するものです。
そして見つけたものから、司会者に答を話して正解。早く成果にたどり着けたら点数がたくさんもらえるのです。
その楽しみはまさに数学そのものの公式を作ることと似ています。いくつかの数量の中に潜むパターンを見つけて、それを法則化するというもの。関数の学習や、文章問題、すべてそれですね。
あ、そう考えると数学者ってパワフルに難しい有る無しクイズを生涯かけて解いている人なのかも知れませんね。
■公式作りはもう1つの楽しみ。
もしあなたが数学や算数の授業で公式を作る(探す)授業を経験したことがないのであれば、それはとても残念なことかもしれません。問題を解くだけでは、算数や数学の面白みは半減です。算数や数学には2つの楽しみがあります。

1つ目は、課題の中から法則を導きだすということ。
2つ目は、その法則を一般化して問題をとくこと。

この2つの楽しみは全く違うものですね。
大体、2つ目の法則=問題を解くことが好きな子が、算数や数学が得意な子と見なされがちですが、それはこの教科の1つの側面でしかありません。こういった課題を見て法則を見つける子も実にすぐれた算数数学のセンスの持ち主です。
こういった子は、誰かが与えた公式はあまり興味を示しません。自分の公式を編み出して、それがちゃんと成立するのか?そのドキドキ具合、そしてそれが正しかったときの感動を求めるのです。
■本来の算数数学の形
もし公式を自分で発見できれば、大変自信がつくものです。それは運命を変える財産になるかしれません。だから僕はこの公式を作るという側面を、やっぱりちょっと大事にしたいですね。
出来る限り一般的な公式を、子ども自身で編み出して「○○○の公式」と名前をつけてほしいと思います。そういった楽しみを求めている子っていると思うのです。
お時間があれば、有る無しクイズをやってみてください。
もし「面白いなぁ」という要素を感じたのであれば、算数数学が好きになる可能性はあります。

授業の成果の因子1「子どもの目標」。

プロファイル作りを進めながら、僕の授業の成果で考えるべきポイントをずっと考えていました。
それはティーチングやコーチングといった枠ではなく、もっと大きな意味での授業の成果です。教えることが仕事なら、算数数学だけを考えればいいのではないか?と思われそうですが、授業をする以前に考えるべきことがあるのです。
■フランス語を僕に習いますか?
たとえば、あなたがフランス語を学びたいと思います。
その時、僕にそれをお願いするでしょうか?絶対にしませんよね。そうです。僕はフランス語の先生ではありませんので、フランス語を僕から習うなんてあり得ないのです。
ただです。
これを僕の立場で考えてみてください。もし僕に「フランス語を教えてください」と依頼がきたら僕はどうするでしょう?まさか、引き受けるわけには行きません。僕はフランス語が教えるどころか、分からない状態です。そもそも僕には、フランス語を教えるサービスは提供できないのです。
ごく当然のことですが、僕が真っ先に考えれるべきことは、
僕はその相手の真のニーズを満たすことができるかどうか?です。
例えば算数や数学専門であっても、有名中学の指導依頼がきたら即断っています。有名中学の受験指導は僕の範疇ではないからです。解けることはあっても教えることは別なのです。
■目標は自覚できない。
またこれも気をつけるべきことですが、子ども本人も、自分が求めている目標が分かっていません。
家庭教師を依頼した理由の多くは、成績が伸び悩むからということで親御さんが申し込まれることが多いのです。ただそれは親御さんのニーズであって、子どものニーズと一致するわけではないのです。
子どもの真のニーズを早く探し当てることはとても大切なことです。そうしなければ、僕は意味のない授業を無駄に行うこととなります。
■目標は適切か?
そしてその子の目標を見つけたあと、その目標がその子にとって適切かどうか?も大切ですね。
目標は実現可能なものでなければいけません。とてもハードルが高い目標を持っていた場合、目標そのものを変えてもらう要求もあるのです。
これは諦めろというより、もっと広い視点で眺めよう!という気持ちです。
その子が幸せに過ごせるライフ=学べるものが多い状態を手に入れることも、ちょっと見方を変えれば可能だ、ということです。
目標を変えることは心1つです。
この後に説明する因子3つのうちの2つは、変えること自体が難しいものなので、この目標を見直すことが成長=成果の重要な因子だと僕は感じています。子どもの大切な時間を生かすも殺すもこの目標1つだと思います。

「図式か図色かそれが問題だ。」-指導法を改めて考える。

図式の始まりは「図を書いて式を書く」でした。
当時、図の要素が主だったのです。
それから2、3年経過して色の存在が極めて子どもたちの理解に影響することが分かりました。ずっと色についての板書を研究していました。
高等数学になるとますます数学は抽象的になり、倫理的になります。そのなかでの色の存在は理解の大きな手助けになります。関数にせよ、数列にせよ、三角比にせよ。板書1つがイメージをつかさどる右脳を刺激するものであれば、子ども達はしっかりとその背景を理解できるのです。
そうしてくると「図」と「色」の2つが、僕の指導法の中で存在感を増してきている。「図を書いて式を書く」より、「図と色の指導法」というイメージが強くなってきています。これは少し困ったことです。
もう少し様子を見てみたいとおもいます。

命を削って命をつくる。ヨメさんを見て想う。

息子のナオを保育園へ見送り、自宅に帰るとヨメさんがキツそうにしていました。
「大丈夫?」
「昨夜も眠れなかった・・・」と一言。
出産まで残り2ヶ月のところまできていますが、このところ体調がすぐれません。
先週に風邪をこじらせてしまい、鼻をすすっています。その上、貧血気味で体を動かすこともできず。さらに追い討ちをかけて、夜中ずっとお腹の子が動いていて眠れない。踏んだり蹴ったりです。
ヨメさんの健康が心配です。
社会一般的に妊娠ってほんわかしたイメージがあるけれど、実際にはそうではないなぁって改めて思います。言うまでもないけれど、お腹で子どもを育てるって大変な作業です。
命を削るなんて言葉があるけれど、ほんとその通り。
長い年月をかけて、
1つの体が、1つの生命をつくる。
命の積み重ねです。

高校数学Ⅱ「累乗根の大小をイメージで!」図で考える数学板書

CCF20110606_00004.jpg指数関数のグラフを学習した後は、累乗根の大小の学習です。
累乗根どうしにも大小がある!ということを意外と忘れがちです。
板書はこれまでの大小の話から入り、
その値の大きさをイラスト調で示しています。
もちろん、大小の根拠となるグラフも吹き出しでしめしています。

授業で僕も成長する。教えることは学ぶこと。

授業って生き物です。
僕はいつも思うのですが、たとえば連立方程式を教えていても、毎回、アプローチは異なるんです。同じ授業は二度は絶対にないのです。
「こんな風に授業をしよう!」と大雑把な流れを念頭に入れるのですが、一度授業が始まるともう計画なんて役に立ちません。
僕が発すると子どものアクションがある。そして僕がすぐにアクションでかえす。すべては瞬間の判断の積み重ねなのですが、そこに僕の力では決して開けることができなかった次の扉があるんです。
「え、そこ質問する?」
という質問がおこる。しかしそういった質問は数理の核心ついています。僕も一瞬では答えられない。
■未知の扉へようこそ
そこで必死になってイメージを広げます。その時、ちょっと自信がない答えが浮かぶ。確信がない。ただ言葉で発した瞬間に、新しい扉がぐわ~って広がるんです。未知なる扉が開くのです。
結局、ははじめイメージしていた授業像はなく、終わってみると想像もできなかったものになるんです。しかしそれは失敗ではなく、成功なのです。
「あぁまた勉強させてもらったなぁ~」
なんて思います。家に帰ってまた、体系化や板書を見直し、流れを考えなおす。そしてまた1つ賢くなる。
■キラリを掘り起こす。
それにしてもボイスレコーダーに入れていると、そのときの流れをまた冷静に聞きなおすことができるのでいいですね。
授業の中で一瞬だけ<キラ!>と輝いたひらめきが起こることがあるんです。しかし僕は授業を進めなければなりません。
それが何なのか分からないまま時は過ぎていく。会話の中にズンズンと埋もれていくんです。ほんとうはそこで1分ぐらい長考したい。でも子どもは待っていますからそれはできません。
そこでボイスレコーダーでとったその会話の流れを、もう一度再現してみるのです。するとそのときの思考の流れが再現されます。これいいですね。何でこれをしなかったのだろう?と思います。
■最後に。
ここまで読んだ方は不思議に思うかもしれません。
「そんなに教えるのって面白い?」と。
面白いんです。
とっても面白いんです。

学習は質と量が大事!は本当か? 学習コーチング。

学習の効果について長年信じられてきた計算式があります。
それは以下の通りです。
学習の質×学習量=学習効果(成果)
この考え方は質の高い学習方法で、たくさんの学習量をこなせば効果があるというものです。これは会社組織でもパフォーマンスを上げるなんて言葉を変えて、使われる計算式です。
確かに質の高いものを量産できれば、優れた成果は得られるのは分かります。ただ、この考え方は機械であれば100%当てはまるが、人間においてはあまり意味がない式だと思うのです。
■単語を覚えた実験
実際、試したのです。ごく普通の覚え方で、ある男の子に短時間で単語を覚えてもらいました。そして同じような単語を別の日に、長時間でたくさん覚えてもらいました。
もちろん、覚えるのに長時間かけたときの方が覚える量は多かったです。しかし単語1つにかける覚える時間は明らかに長くなっていました。要するに1つの単語にかける学習の質は下がっていたのです。
■心がある。
まとめるとこういうことです。
質の高い学習を心がけても、量を上げれば質は下がる。学習効果は長丁場になれば上がらないということです。
機械ではこの計算式は通じるのに、人間だと意味を持たない。なぜ、質は下がるのでしょうか?なんてわざわざ問うまでもありませんね。機械にはないのに、人間にあるもの。それは「心」だからです。この計算式には全く「心」が考慮されていません。
■10時間勉強の内容は?
教え子たちから尋ねられることがあります。
「友達が休日に7時間勉強したというんだけれど、先生、どう思いますか?やっぱりこれぐらい勉強しなきゃいけないのですか?」
その度にこの様に話しています。
「そりゃ僕には分からないね。だからその友達に聞いてみたらどうだろう。7時間、何を勉強したの?そしてその中で何を学んだの?ってね。その答を聞いてから、自分で判断したらどうかな?」
結果的に聞いてみたら、何を勉強したかは言えましたが、何を学んだか?は全く出てこなかったそうです。そういうものなのです。
■計算式はいらない。
教える立場からいえば、このような学習成果の計算式を考えることはあってもいいでしょう。
しかし学ぶ立場からいえば、こんなバカバカしい計算式は必要はありません。
そして時間をかけて勉強!なんて思想は忘れ去るべきですね。これは百害あって一利無しなしです。その代わりに常に心にとどめておきたい問いがあります。
何を手に入れたか?

これだけでいいのです。
そこで出てきた答が学習成果です。

自分の声や言葉を検証。授業評価を検討中。

「利用頻度の高いものほど価値がある」
分厚い六法全書と小さな絵本、どちらが価値が高いか?法律家に聞けば六法全書というだろうし、3歳の幼児に聞けば絵本というはずです。これこそ利用頻度による価値。ただ、意外と忘れてがちです。
■体系化も大切だが…
算数数学の体系化は大切です。
それは突き詰めれば突き詰めるほど発見があります。しかし小数の体系化は毎日使いません。小数を毎日教えませんから。頻度で言えば体系化は低いものです。(注:ただ小数を教える際、この体系化は頭に叩き込んでおかないと、子どもの躓きは分かりません!)
では体系化よりも価値あるものは何か?それは効果的板書だったりします。小学生から高校生まで、板書は間違いなく発生するからです。これは重要です。
そして近頃、板書のように利用頻度の高い道具を考えてみたんです。いつも使っているのに、その重要価値に気づいていないものは?まさか、あるわけないですよね。全部気づいているはず…
それがあるんです^^
気づいていないものが。それはちょっと目に見えない道具です。
■見えない「僕の声」
授業で使われる僕の声はすぐに消えます。発したその瞬間に消えます。しかし板書と並んで声も重要でしょう。いや板書は間違えたら消せるけれど、声は出したときが完成品。こっちのほうが配慮すべきことだったのかもしれません。なんでこれまで気づかなかったのでしょう?一番の大切なところなのに。
そうそう。
これまで何を言うか?何と言うか?についてはよく考えていたのです。こう説明すればいいとか、そういうものです。しかしその声が単語イメージとあっているのか?それは確認していませんでした。
声のスピードやテンポ。繰り出す単語の種類。単語のイメージ。
授業を離れた後、ちゃんと検証してみるべきでした。
■ボイスレコーダー
早速、ボイスレコーダーで授業を録音始めました。そして自宅で検証してみました。いろんな発見がありますね。
・声が高い。
・立って説明するとき、スピードが若干上がる。
・くだらない話が子どもの意識に有効にに働いている。
人の声に合う言葉ってなんだろう?とか思ったりするんです。昔は自分の声を聞いたりすると気持ち悪いものでしたが、30を超えてしまうとそうでもないですね。
うわぁ~素敵なボイス!なんて冗談もいえますね。

僕の理想的なコーチ像。みかん先生は誉められない。

子どもたちから尊敬されたい、と思ったことがありません。
尊敬はされなくていいんです。尊敬されることを考え始めたら、むしろ授業は上手くいかない気がします。
子どもたちの良き理解者であり、彼ら彼女らの成長を心から願う1人でありたい。
僕が願うのはそれだけです。
「みかん先生って、普通だよ。
 違うところはよく話を聞いてくれるぐらいかな。
 僕が勉強できるようになったのは、僕の力なんだ。
 先生のおかげじゃないよ。これは僕の力なんだ。」
もしこんな会話が生まれることが、僕の目指すべきゴールだと思います。
そこに<みかん先生の力>とかいらないのです。
ただし、こんな会話が繰り広げていられたら?
「みかん先生の授業って分かりやすい。
 先生がいてくれたから私は数学ができるようになった!」
会話は嬉しいのですが、こんな僕には修行が必要です。
僕が誉められちゃいけない。本人が誉められている間は「みかん先生」は未熟です。