1999年のぼくは、たぶん算数障害だったであろう「男の子」への対応を間違えました。そのとき、ぼくはアルバイト家庭教師-2年目の大学生。発達障害もあまり分かっておらず。この記事は「今も間違いに気づくために考え続けなければならない」という自分への教訓も戒めて書いてました。
部屋に入ると走り回っていた
その男の子は、小学校3年生。ぼくがこの子の部屋に入ると、男の子は席に座ることなく部屋を駆け回り、ベッドの上を飛び跳ねていました。はじめ唖然としました。そして頭を抱えました。
『座ることもできない子に、どうやって計算をやらせればいいんだ』
悩み抜いた上、ある日、いいアイデアを思いつきました。そして親御さんに提案。
「授業時間外に、この子をお買い物に連れて行っていいでしょうか?そこで実際にお金のやり取りをさせます」
ぼくは、算数が必要とされる場面を設けたのです。
止まってしまった男の子
買い物の当日。3年生は嬉しそうにお金をもって近所のスーパーへ行きました。そして大好きな駄菓子をカゴに入れました。ぼくはそれを横目でみて見守りました。そしてレジの前。
「254円です」
レジの女性が言いました。男の子は静止。代金を払えません。254円が分からない。男の子はぼくを見ました。けれどぼくは手を貸しません。
そこで男の子はレジの女性に持っているお金をすべて見せました。そしてレジの人に代金分をとらせたのです。そしてお店を出た後、ぼくは男の子にこう言いました。
「今回の失敗で分かっただろう?計算ができなかったら、お買い物に困るんだ。だからちゃんと勉強しなきゃいけないんだ」
男の子はうつむくだけでした。
おわり
なぜこんなことを言ったんでしょう…
今、書きながらも嫌な気分になりました。誰もがこの対応に何か不適切さを感じるはずです。間違っているのはここ。
「今回の失敗で分かっただろう?計算ができなかったらお買い物の時に困るんだ。だからちゃんと勉強しなきゃいけないんだ」
ぼくは計算の動機づけのために、買物場面での「失敗」を設けました。この子はこの失敗で計算の大切さが分かる。それで行動が改善する=計算をするようになる、と思ったわけです。
しかしどうでしょう。男の子は、ぼくの意図した通りになりませんでした。この子はそれからも計算を拒み続けたのです。
思い込んじゃいけない
ぼくが考えたことの浅はかさーそれは失敗した経験がプラスに変化する―でした。
現実は違う。失敗は時に悪い方向にも向かいます。ここの場合だと、計算の必要性を感じるどころか「一人じゃ買物をしたくない」という失敗回避が起こる。計算はますますしなくなります。
今でこそ少し考えれば分かることです。身勝手な精神論や成功論でことを決めずに、その人の心の動きを事実としてありのの侭に受け止めて導いていく―しかし当時は自分の考えに疑う余地がありませんでした。
今の判断は未来では間違い
そう考えると、ここで今ぼくが考えていることもいずれ間違いと気づくでしょう。今は正しくても、未来ではそうじゃない。永遠の正解なんて手に入らないんです。それなら言わない方がいいんじゃないか?と思うこともありました。けど、それはいけない。なぜなら発しないかぎり、その間違いには気づかないわけですから。
今の間違いを恐れず、つぎの正解(さらなる未来においての間違い)を引き寄せようと考えています。今、ぼくが接している子たちへの対応も、常に改めていいくしかありません。
追記:この男の子の対応は正しかった
最後にもう少し。今、思い返すとその買物に連れて行って、男の子がレジの女性にお金を広げたこと。この男の子の対応は正しいと思います。
恐らくこの男の子は算数障害でした。当時、計算の受け皿がまだなかったはずです。そんな男の子がレジの前で考えた方策が「お金を広げる」。そしてモノが買えました。
ぼくはここで成功した行動を誉めたたえ、さらにフォローするべきでした。
例えば、お金を見せると同時に男の子に「『レシートを下さい』と言えばいいよ」促す。これは、後に信頼できる人に確認してもらうためです。(※今の時代では電子マネーもあるので楽ですね)またおこづかい帳をつけてもいいでしょう。
もちろん計算ができなくてもいいとは思ってはいません。計算と買物は密接に繋がっていますが、問題は別々に扱った方がいいということです。このあたりはこれからもよく掘り下げて記事に出来たらと思います。
あの男の子は今、20代後半にさしかかっているはず。今でも申し訳ないことをしたと思っています。