私たちは「今の」わが子にしか逢えない

代わり映えのしない朝。ぼくは娘を自転車の後部座席にのせて、走っていました。いつもの信号。横断歩道で止まります。娘がぼくの後ろから、指を指して尋ねてきまして…その話。

「あれは、なに?」

電信柱に付けられた赤いボタン。視覚障害者用のもので、ピィピィと鳴ります。

「おんきょうよう・おしぼたん」
ぼくは娘に教えました。すると娘は「とうきょう◯※▲#%$”…ボタン」と復唱する。ニンマリ…。まだ5歳児、言葉によっては上手く舌が回らないものもあります。二回訂正しましたが、上手く言えず。

その日の夜、この話題をヨメに話そうとしました。あれ…あのとき何と言ったか?思い出せない。ちょっと可愛らしい言回しだったのに。そこ重要でしょ…ヨメが急します。結局思い出せず、それならもう一度、言ってもらいましょう。というわけで、翌朝へ。

言えないはずが…

また代わり映えしない朝です。
ぼくは自転車に娘を乗せて、保育園へ向かいます。そしていつもの信号機の前で、自転車を止めて、赤いボタンを指差します。

「これはなんだけ?」

娘は、えっとえっと…と首を傾げる。そしてぼくが助け舟を出しました。ぼくは「おんきょうよう、おしぼたん」と教えました。さぁ娘への期待が膨らみます。そして娘は言いました。

「おんきょうよう、おしぼたん」

あれ…完璧です。
昨日は言えなかったのに…。もう一度言って、とお願いします。音響用押しボタン…完璧。もう一度言ってもらっても完璧。全く間違えないのです。

「ちゃんと言えるようになったでしょ」

と満足そうな娘。うん、と笑顔を作りつつも惜しい気持ちで一杯でした。それから娘を保育園に届けた帰り道、ぼんやりと考えていました。

二度と戻らない

そのとき言えなかった「音響用押ボタン」が翌日にはもう言えている。この小さな成長のワンシーンが大切なことを気づかせてくれました。

今日のわが子に「昨日のわが子」も「明日のわが子」も求めることはできない。

たった一日の違いのなかで昨日出来なかったことが、今日はもう出来ている。ということは昨日と今日のわが子はもう全く違う生き物なわけです。

それはどうにもならないし、どうすることもできない。もしどうにかしたくても、今はその時を迎えるために時を過すしかない。こういう考え方ってあると思います。

「代わり映えのしない朝」ってない

そう考えると、冒頭の「代わり映えしない朝。ぼくは自転車を後部座席にのせて…」というのは違うと分かりました。本当はいろんな変化があるのに、日常の色んなことに目を奪われて、毎日やっていることが代わり映えなくみえるだけ。

次々に変わっていく娘は目の前にいる。でも気づかない。あぁ勿体ないですよね…。

これからもう少し立ち止まって、わが子をみてあげたいです。それにしても、今朝の娘にはもう会えないと思うと、寂しいですね。やっぱり。