学習の得意が理解の邪魔をする

息子ナオ(中学3年)と英語の長文読解をやってます。ナオはしっかりとした日本語訳にしようとする意識が強すぎて前に進まないです。

「語順の通りに訳しなよ」

と言ってもやりません。

日本語として変な形になるのが嫌なのか、自分はできるというプライドが邪魔をするのか…ぼくは言います。

「andがきたら1回そこで訳を切る」

「名刺の後にto・forが来たら、理由がくるからね」

と簡単な法則を説明します。するとナオがぼくに抗議をしました。

「お父さんは文法で読むけど、ぼくは感覚で読んだ」

なにを言い出すんだ。

「文法で読んだことないぞ?」

「いつも言ってる。SVOOとかさ。そんなの気にしていたら、何もできないよ」

僕をじっと見つめて言いました。

定期試験ではいい点数をとっても、実力試験じゃ全くふるわない理由はここです。ぼくは尋ねた。

「じゃSVOOってなんだ?」

「それは…」と言葉が詰まった。ぼくはペンを持って、彼に差し出した。

「I give you this pen.…これ、わかる?」

「私はあなたにこのペンをあげるよ、でしょ」

「そうだよね。これがSVOOだ。私・あげる・あなたに・このペンを。誰かに何かをしてあげる文章なんだ。それを読みながら捉えれば、別にSVOOなんて言わなくていい。でもその文章構造は理解しないと、意味がつかめない」

「分かっているよ」

「だったら文節で切って、語順訳ぐらいできる」

ぼくは先日にナオが受けた英語の長文を、語順の通りに訳していった。

「サム・である・高校生・UKからの。かれは・来た・日本に・日本語を勉強するため・1年間…」

文節で切って8行ほど読み終えた。ナオはその文節訳をじっと聞いていた。そして話した。

「お父さんは英語が苦手だった。聞き取りは今でもダメだ。でもそんな苦手なお父さんでも前から訳していく練習を積んだよ」

「そして少しずつ読みながら意味がわかるようになった。分かるまでは厳しき戦いなんだよ。」

しばらくしてナオは答えた。

「夏休み、前から訳ができるように頑張るよ」

そうかと頷いた。

努力に勝る天才なしという言葉は、ヨメさんよりもぼくから言ったほうが説得力がある。

学問に王道なしだ。