学校の授業であくびをすれば、先生に注意を受けます。でもどうなのでしょう。この3年ほど、ぼくの授業ではあくびの存在を大いに認めています。あくびはとても重要なサイン。これを活かさない手はないです。
うわーん・・・
子どもは大きなあくびをしたのち目に涙を浮かべながら、その行為に気づいて、慌てて申し訳なさそうにペコリと頭を下げて申し訳なさそうにします。
ぼくとの授業がまだ短い子にはよくあるんです。そのとき、ぼくは思わずゲラゲラと笑ってしまい、そして言います。
「あくびはいいよ。我慢せずにやって。」
とはいっても、あまりに不気味な発言に子どもは当惑。相当怒っているのではないか?と勘ぐられるので、またそれからぼくはことの理由を話すのです。
「あくびってね。
脳が血流を一時的に促進させるものだから、
決して悪いことじゃないんだよ。
君自身ががんばって授業を聞いている証拠だからね。」
すると少し安堵してくれます。
このあくびへの一般認識ってやっぱり失礼なことなんですよね。
あくびって失礼?
一般的に授業を行う先生の前であくびをすると、それが教えてもらう側の態度か!って感じで悪い印象となります。その気持ちはぼくも分かります。
でもね、それは先生への不敬(という言い方はあまり好きではないんだけれど)を狙ってやっているわけじゃないし、ワザワザそれに目くじらたててチクチク苦言をこぼすのは、ちょっと器が狭い気がしますね。授業のテンポも悪くなるし。まぁ、そんなことよりもあくびって重要なサインと思います。
苦手なことは大変なのだ
ぼくの授業ではあくびが起こります。認めているので、子どもはおかまいなし。ひょっとしたら、他の先生たちがそれをみて、少し多すぎないか?と思うかもしれませんね。たぶん多いはず。
でもあくびの主な理由は分かっているんです。それは子どもにとって「苦手な算数」を扱っているからです。
大多数の子が何気なくできることも、苦手な子にとっては一苦労です。一瞬で分かることも、苦手な子は脳をフル回転しなければ出来ないこともあります。
つまり算数や数学が苦手という子たちは、脳へのつよい負荷の下で授業に挑みます。
脳へより多くの血流が欲しくなる。
するとどうしてもあくびが出る。
余談になりますが、もちろん一般的なあくびの理由とされている「疲れ」とか「興味なし時間の継続」も一因としてはあるのかもしれません。
しかし面白いことに、子どもが疲れていない状況で「さぁ、今日は一次関数を勉強しよう!」とぼくが言った瞬間に、大きなあくびが出てしまう子もいるんですね。もちろん子どもに悪気はない。むしろなぜ?不思議がっています。
ぼくはこれってあくびが移る現象と似ている気がするのです。脳に負荷のかかる行為を表す名詞をキャッチした瞬間に、脳は予め血流を送り込もうとしているのではないかなぁと考えています。
あくびの後の対応策
あくびについて肯定的に捉えているぼくですが、ただあくびを見てそのままにはしません。
あくびが出ている(=脳が意図的に血流を促進する)ということは、無理な負荷がかかっているということです。パフォーマンスは低い。そしてこの後に予測できるのは何かというと…睡魔です。
できるだけ早く対応策を実行しなければなりません。
一番良くないのは、叱ること&諭すことです。これは最悪です。問題の本質を見誤っています。そもそも、生理現象を理性で乗り越えられるはずはありません。
あくび=今の状況が負荷がかかっている状態であるわけなので、何かを変えることで状況を改善するられるでしょう。変えるべきは大きく2つあります。
やるべきことの内容を変える。
やるべきことのやり方を変える。
やるべきことの内容については、例えば算数の小数の計算であくびが出たのであれば、整数の計算に変えてみる。また、思いきって少し算数からはなれるもアリです。休憩を入れたり、好きなことへのおしゃべりをしたりもいいですね。
またやり方を変えるについては、そこに手作業を小刻みに入れるとか、コミュニケーション型にするとか、あるいはお互いに立って勉強するとか。
まぁとにかく。ここでは教育精神論に持ち込むのではなく、その現状を子どもと先生で互いに肯定的に捉えて、現実的な視点で考えなおすということですね。
まとめ
これってつまり“できるだけ無理なく成果がでる方法へと移行する”という苦手な子を教える際の基本姿勢に戻るのです。
眠気が出てはパフォーマンスは0。授業はあっても学びなしです。だからぼくは、子どもたちへ「あくびが出た=先生に失礼だ!」ではなく、「あくびが出た=成果が出にくいぞ!」と話し、成果が出る方法を模索させています。
あくびに潜むとっても大切なこと。それは
“その状況に応じて成果をだす方法を変えていく”ということの実践経験をつめることだ、とぼくは考えています。