届く言葉とは難しいとおもう。

届く言葉というのは実に難しい。強く訴えたからといって、届くわけではない。どんな素晴らしい言葉だって、受け手がそっぽを向いてはとどかない。


届く言葉とは難しいとおもう。

別に何かあったわけではないんだけれど、子どもたちのコーチを務める中で「なにが一番難しいか?」とふりかえれば、それは「言葉」だと思います。
数学の解法なんて、答はあるのだから難しくありません。でも子どもは、それぞれが違います。ぼくと子どもとの間に答なんてないんです。だからお互いに1から模索しなきゃいけません。
僕と彼らの情報を伝えあう「言葉」という道具のは、成長の可能性を大きく占めています。が、その言葉こそが難しい。
まず、その子に伝わらなきゃいけない。
ぼくが言いたいことをただ放り投げてもだめ。言葉はひとりでに暴走していくだけ。それどころか、薬のつもりで投げた単語が、子どもたちの心に突き刺さり、これが成長の毒になることだってあるかもしれない。
だからいつも、
『今、子どもがみている世界とはどの様なものなのか?』
ぼくはそこをじっと目をこらして見ているつもりです。
たとえば、何も考えずにただ慌てて解いていく子に対して、
「ただひたすら解けばいい、というものじゃないんだ!」
そういってもそれは見当違いだとおもうのです。
ぼくの感情ばかりが先に出て、子どもの感情が受けになる。子どもの世界がみえていない。受けの立場に想いを馳せれば、言葉は違ってくるはずです。
「いま、ここではアクセルを緩めよう。
 焦りが募っているのはよく分かる。
 でもここは我慢だとおもう。
 もうしばらく、あと1週間だけ耐えよう。」
こんな言葉をかけてあげたいです。
その言葉の中に「暖かさ」をいれて、なんてそんな意図的なものじゃない。なんだろうなぁ。
ただ届く言葉には、なにか<人と人>というシンプル関係性の中に気づかいみたいなものがが眠っている、そんな気はします。