発達障害の診断より学習支援を重視するわけ

特徴的なお子さんについて保護者から「発達障害でしょうか?」と尋ねられます。たとえ何かの診断名がついたからといって、何か特別な優遇処置が受けられるものでもなく、そうなるとやっぱり大切なのは悪しきものを退き、良きものを取り入れる。これに尽きると思います。

不安がある

やはり障がいなんですか?と不安に思う親御さんがいます。お子さんの不安な要素をおしえてもらいます。その特徴的な部分については、ぼくも知っているところです。

そのときなんと言えばいいのか、ぼくも迷うところです。親御さんの不安はよーく分かるんです。ぼくも同じような境遇のちょっと変わった子の父親だから。

たしかに診断を受ければ…ひょっとしたら何らかの障害名がつくかもしれません。

そう伝えると、このとき「やっぱりですか…」と納得する方もいれば、より強く不安を感じる方もいます。それぞれに置かれた心の状況というのは様々です。ぼくなりの不安との決着の付け方を少しかきたいと思います

なぜ不安は起こるのだろう?

ぼくがよく自分に投げかける質問です。べつにこの子だけを見ている分には何も感じない。しかし不安を感じる、沸き起こるときというのはあるんです。それは他の子との違いをみたときです。

もう3年前だったか、息子の保育園の一日保育にぼくが参加したときの話。みんなと一緒に楽しくゲームをしていたんです。それが楽しくてですね。息子もうまく馴染めていて「あぁ良かった」なんて内心安堵していました。するとゲームに負けたことで、息子が急に泣き出しまして。床に寝転んで、足をドタバタ。

それを周りの園児がじっと息子を囲って見下ろしていて、その風景が「この子はやはり特別なんだ」と現実を突きつけられました。

それはいいんです。重要なのは『こんな調子で小学校で上手くやっていけるのか…学校の勉強についていけるのか…』と思った自分の心境でした。この一瞬の心のつぶやき全てを表現しています。

そうこの子だってついていかなければならない。という社会システムがそこにあるわけです。

文科省の指導要領からはみ出る

ぼくたちは『学校の勉強についていく』と言うことを教育の前提としています。教育課程に則って進めていく。それは日本ではそうであっても、世界の教育では違うんですね。

発達障がいへの理解が進んでいる海外の公教育では、その子の個別の能力(発達過程)に沿ってカリキュラムが構成されています。それぞれの違いはあることを前提にして、その子にあった適切な教育があり、その子への個別評価があるわけです。ここで想像してみたんです。

皆それぞれが学習内容が違っている世界にわが子がいても、ぼくはやはり今のような不安を抱くだろうか?

答はNOです。恐らくついていけない不安はないでしょう。全ての子がバラバラなのであれば、そもそもついていかねばならない集団すらないわけですから。

それに気づいたとき、あぁぼくの息子への不安はシステムによって作られたものなんだ…と気づきました。

何もできない現状

それに気づいたところで、実際に何か出来る訳ではありません。うちの子だけカリキュラムを変えて下さい!という訳にはいきません。

今は適切な支援を組み入れる

これしかないと思います。待っている間に子供たちは大きくなります。ベストな答えより、ベターな答えです。