大人の叱咤よりグラフの声に耳をすます

こちらの考えを口酸っぱく言ってもその時は「ハイハイ」言うけれど、そこから行動に移れない。だから言うことやめてしまって、子どもにうまく事実を伝える。そのときグラフは言葉になってくれます。


もう説教はしないよ

どこかで書いたかもしれないけれど、もうずいぶんと長く教え子に叱咤(説教)しなくなりました。ほんとに。

それは「言っても無駄なんです…」という諦めモードなことではなくて、説教する行為自体があぁダメなんだなぁって。むろん叱咤(説教)の全てを否定するわけではありません。

ただ、ぼくのような週1回くるおじさんが叱咤したところで子どもにとっては迷惑三昧。まれに「先生が言ってくれればやります!」と期待を寄せる親御さんもいるけれど、残念ながらぼくにはそんなパワーはありません。

まぁ親や塾学校の先生と異口同音になれば、「ブルータスお前もか!」と解決は遠のくばかり。だから人の考えを当てるよりも、ここは寄り添って共に考える方がいいと思うのです。

現実はそこにある

そんなときグラフを作るのです。
ぼくは何か達成しなければならないものが生じたとき、(例えば学校の大量の宿題とか、新しい課題とか)必ずと言っていいほどグラフを作ります。

グラフの種類はその時々においてさまざま。子どもが作るの面倒くさいよ…と言うと、ぼくがサラサラと作って一人で勝手に記入。そして、いまの経過を示してあげる。すると子どもは見ちゃうんですね。

「え…こんなにあるの!」
「もしここでしなければ、そのあとは大変になるね…」

そこではじめて自分で考えます。
そして宿題やら課題やらを済ませた後に、本人にグラフの記入をお願い。記入すると徐々にゴールに近づいていることがわかります。

「けっこう進んだ」

しだいに達成感が芽生えます。
このグラフ作りですべての子が、一人でやりはじめるというわけではないけれど、みんな何らかの心の変化が生じます。多かれ少なかれ、状況を客観的に見れることは間違いないみたいですね。

リアリティーの問題

一般的に、こどもの学習の取り組みを問題視するとき、その原因は「やる気」に落ち着きます。でももう少し突っ込んで考えると、やる気が起こらないのはそこに全体像が見えないから、ということも考えられます。
また「親から指摘されてやるのは負けた気がする」という子どもの声をよく聞きますが、まぁ指示を干渉も嫌なのでしょう。

それは親の立場から見れば「だったら言われる前にやれ!」ということなのですが

というわけで、何も言わずにグラフ・グラフ・グラフ。
物事のはじまりは「見える化」で知ることです。叱咤より「知った」ですね。