不便益が与える「おいしさ」の話

そのおいしさの向こうには「家族との貴重な時間」があるのです。

数年前から家族に対して、教えている子どもたちに対して「不便益」という言葉をたまに話しています。

不便益とは、あえて手間や不自由を通すことで「愛着」「スキル向上」「達成感」「理解の深化」「能力低下の防止」などの益を得るというものです。便利を追求するこの世の中で、すぐには理解が得られにくいです。

そんな不便益にまつわる話です。

先日のこと。

家族から「わが家はなぜ、お鍋でご飯を炊くの?」と尋ねられました。わが家は昔、電子ジャーをやめてからずっとお鍋でご飯を炊いています。

子どもたちは、炊飯を頼まれたとき、それが「めんどくさい(不便)だ」といいます。

それはそうでしょう。

鍋で炊くというのは、まず途中で火力の調節が必要です。その場でずっと見張っている必要はありませんが、火加減の変更のタイミング誤ると炊飯は失敗します。だから気が抜けません。

一方、ジャーはどうでしょう。

炊飯ボタン1つで勝手に炊き上がる。操作の押し忘れがありません。スピーディー。そして必ず美味しく炊けます。

どっちがいいですか?と尋ねられたら、ほとんどの人が「電子ジャー」と言うはずです。

でもぼく(父親)は鍋にこだわっています。

ぼくはこれまで子どもたちに鍋で炊飯をする理由を「鍋は丸ごと洗えるけれど、ジャーは丸ごと洗えない」とか「ジャーはちょっと邪魔だ」と言ってきました。

子どもたちは納得しません。

そこで最近は「鍋で炊いた方が、おいしさが分かるから」といっています。

ますます、納得しませんでした。

美味しいのは電子ジャー。失敗が絶対ないです。

たしかにその通りです。電子ジャーは必ず美味しく炊けます。

でもそこが盲点なのです。

いつも美味しいご飯は、本当に「美味しい」の?

美味しいに決まってるじゃん

毎日、美味しいと、本当に美味しく感じるの?

うん…どういうこと?

毎日、おいしいご飯が出てきたら、誰もご飯のことを「今日のご飯はおいしいね」と思わない。それは当たり前だからです。

でも鍋の炊飯は、おいしさが約束されていない。炊き手がうまくやれば美味しく炊ける。うまく出来なかったら美味しく炊けない。美味しさは簡単に手に入らないのです。

だからいいんです。

うちでは『ご飯の炊き具合』が会話にのぼるよね。

うん、普通にある

お父さんはそれって貴重だなってと思うんだ

おいしいご飯が出てきたら「おいしいな!」「誰が炊いたの?」「どうして美味いの?」という会話が広がる。

炊飯を失敗したら、炊き手はしょんぼりしてしまう。家族はドンマイ!と励まして、雑炊として食べます。

ただの炊飯でも不便な方法をとるだけで、日々の味の変化(おいしさ)に気付かされる。そして家族の中にドラマが生まれるのです。

ぼくにとってそれは「貴重な家族との時間」です。ぼくは便利でそれを消したくありません。

糸井重里さんの名コピーではありませんが、こういった中に「おいしい生活」を感じています。