まちがいを「バツ」にしないこと

子どもたちは「マル」にこだわります。だから答を間違えていたとき、先生であるぼくにバツをつけさせなかったりするんですよね。その場ですぐに書き直して、マルを望みます。こういう様子をみていると「バツってなんだろう」と思います。

バツを嫌がる子

算数の学習の中でバツを嫌がる。マルでなければ、納得しない。まちがえた問題を青マルにしてもダメで、すべて赤マルをのぞみみます。算数が不得意な子を中心に教えているなかで、そういう子は多いです。全体の4割ぐらいです。

マルとバツを明らかにするというのは、正しい学習の基本です。マルバツをみて「何ができていて、何ができないのか」が分かり、そこからその次の課題がみえてきます。かつてマルバツを嫌う子には、とりあえず青マルで勘弁してもらっていました。

しかし近ごろ、ぼくは快く「赤丸」をあげるようにしています。みんな大喜びです。正解してもマル。間違えても、にっこりとマル。これだと子どもたちも嫌な気分になりません。

バツは必要なのかな

子どもの側に長くいると、ときどきこの「バツ」の意味を考えます。バツをするとどんないいことがあるか?さきほど説明したような、こどもの学びの状態を明らかにするほかに、子どもの「こんにゃろー」という気持を駆りたてる、のもあるかもしれません。でも他の理由はないんですよね。

このマルバツのシステムって元々は、先生都合で作られたものです。テストの点数をつける時に、実にわかりやすい。しかし学び手にとって「バツをつけられるとこどもは嫌な気分になる」という副作用があります。それは仕方ないことと考えることもできますが、その副作用が「その先の学問をする可能性」を奪ってしまうかも、と思うとどうでしょう。

1つでも多くのことを学び、人間としての完成をめざす。これが学問の本義であるなら、マルかバツかで一喜一憂して、学びへの意義を失ってしまうことは、実におかしなことです。多くのことを学びつづける目的が、マルを得ることの目的にすり替わっています。

そういうことをひっくるめて考えると…拘るべきことは、マルかバツかではないんですよね。

前に進めているか

常に子どもが学ぶことへの面白さを獲得しているか。自分が考えた過程を、誰かに聞いてもらい、それを認めてもらえるか。そういうマルバツでは見えない部分—ここを大事にすることと考えます。

答が正解と異なっていてもマルはもらえる。それでいやな気持ちなく、前に進めるのであれば、もうそれで十分ではないでしょうか。