誤解だ!僕は無欲ではない。欲があるから楽しい。

「先生の個人口座に1億円が振り込まれたらどうする?」
なんて質問を教え子から受けました。しばらく考えた僕が出した回答は
「たぶん、死ぬまで一億の桁は1がついたままなんじゃないかな。」
と回答をしましたた。その回答に教え子も納得したようす。まぁいくら考えても使う宛てはない。もちろん入る宛てもないけれど。
■無欲ですね!
こんな人間を前にすると、子どもたちは「無欲」と審判を下します。大迫先生は、漫画も読まないし、ゲームもしない、テレビなんて見ないどころか持ってないし。あぁ先生は前も無欲という判決が出ているから、はいはい、今回も無欲ね…と。
裁判長!あぁ、なんと雑な裁決でしょう!弁護士を呼んでください。という気分です。
■いらない物ばかり
たしかに僕は30年ほど生きてきて、物欲というのはスッカリ枯れてしまったんだけれど、でも欲しい知識や欲しい技術などは枯渇するどころかドンドン盛んになっているように気がします。
昨日も電車に乗りながら
「あぁ、あと何年生きられるんだろう?それまでにどれほど身に着けることができるのだろう?」
ということを考えてしまいました。もちろん僕が言う勉強というのは、教科書を見て学ぶということではなく、もっと別の学びをさしています。
■みんな貪欲だ
物欲にせよ、知識欲にせよ欲の種類は違うけれど、やっぱり欲のある人生は楽しい。また、その欲をどのように生かすか?ということも僕は人生を生きるうえで大切なことだと思うのです。
それが仕事になればもっと楽しい。それは間違いない。
僕はそう思います。

教育で培う3つの力ー生きる力って具体的になに?

教育に必要なのは学歴ではなく生きる力だ!
と言うけれど、ではその「生きる力」ってそもそも何なのか?それを明確に回答してくれた人を僕は知らない。
僕は学歴主義に賛成する立場ではないが、学歴というのは極めて具体的なので人々がとりあえずそこに進もうという考えは良くわかる。不況で就職が厳しい状況を考えれば、学歴は1つの大きな武器になることは間違いない。
■抽象的な生きる
ただそれに対して「生きる力」というのは、極めて抽象的だ。
たとえば、今この文章を読んでいるあなたは生きているから読める。だったら生きる力(=生命を維持する力)は多かれ少なかれあるわけだ。
僕はホームレスをみると生きる力を強くヒシヒシと感じるんだけれど、その生きる力を学びたいなら算数や数学を学ぶことなんて止めてしまって、ホームレスの方々にならって生きていく力を実体験で学んでいく方がずっと効果的とおもう。
■生きるために必要なこと
いや、そういうことではないのだ!と生きる力を支持する方は言う。
「自然を愛したり、自分で物事を考えたり、だから勉強をする。」
気持ちが十分にわかるだけに、何かとても惜しい。そこで僕はずっと考えてこんできた。
シンプルに、シンプルに、シンプルに。

「生きるために必要な力とは、一体なんなのだろう?
 これがないと生きていけない技術を総括すると、
 それはどういう力を示しているのだろうか?」

どれくらい考えたがもう始まりさえも忘れてしまったが、
これが最近になってやっとアウトラインが見えてきた。
いろんな余分なものをそぎ落として、生きるために必要とされる力。
それは大きく3つに集約される。

・想い描く力
・耐え凌ぐ力
・解決する力

長く考えたわりにあまりにも普通の言葉たちで、少々がっかりされたかもしれない。
ただし、この3つの力さえあれば誰でもごく普通に生きていけると僕は自信を持っている。
■想い描く
「大人になったら何になるの?」という大人の質問に
「お花屋さんになるの。」という子どものこたえ。
誰にでも経験があることだが、大ざっぱに言えばこれが「想い描く力」の始まり。
ずっと先にある一枚の絵を自分の心のキャンパスにちゃんと描くこと。
夢なんて持たない子もいるぞ!という反論もあるだろう。
ただ今日の予定やら、3ヶ月先の目標やら、テストの点数やら、欲しい車やら、そう言ったものも想い描く力にあたる。
また、自分の身の回りに見えてきた問題や心の障害など、こういったものも僕は「想い描く力」の範疇に入れている。勝手にわき出てくる1枚の絵もあれば、自己設定する1枚の絵もある。絵があれば子どもたちはどこに進むべきか、ちゃんと分かる。
決して迷わない。
■耐え凌ぐ
想い描くことができた絵がその向こうにある。その夢の場所にない間は、現実の世界で呼吸をしなければならない。
そこには多くのストレスや予期しないアクシデントがある。
そういった外敵や環境に対して負けない力。
この力は、子どもを育て始めてから必要性を強く感じはじめた。
この力は学習で身につくというよりも、日常生活で次第に身につく力だとおもう。
家庭内のしつけとか、1つは耐え凌ぐことだとも思う。
■解決する
一枚の絵を想い描けて、身の回りの環境に耐え凌ぐことができても、目的の1枚の絵に近づけなければ意味がない。ずっとそこに留まっているだけでは、何も変わらないのだ。
この前に進める力が「解決する力」。
この力は多くが学習で身につくものと考えられる。
たしかに海外で生活するには語学力は必要だし、家をローンで買うには計算力が必要だろう。
しかし実際には、科目的な教育だけでなく、日常に起こる問題の解決力もこの範疇に入れている。解決する力は何を手に入れたか?が重要になる。
■生きるって自分で転がすこと
考えてみると当たり前のことなんだけれど、近頃、子どもたちを振り返る時この3つをイメージするようにしている。教えてテストの点数10、20をあがるのは難しくはない。
しかし本当に重要なのはそこではない。
僕が教えた場所が10点あがるより、僕が教えなかった場所でも10点ほど上がったままの方がいいに決まっている。要するに自己解決できれば、それに超したことはないのだ。
僕が転がすのではなくて、子どもたち自身が転がりだす。

僕の提供する教育サービスって、
こういう形を目指すべきじゃないか?と思いはじめている。

やれば出来る!は止めた方がいい。方法論コーチング

「やればできる!」という言葉は、
高校生が使ってはいけない言葉のひとつ。
この言葉の真偽はともかく言葉そのものが具体的じゃない。
高校生ならハイレベルな思考でいこう。
「どこを、どのように、どのくらいかけて、どの程度やれば、
 どれくらいできるのだろうか?」
さっきの言葉が少々具体的になっただけだけれど、
まぁこれがいわゆるハイレベルというもの^^
どこ=エリア
どのように=方法
どのくらいかけて=時間
どの程度=完成度
どのくらい=成果
ということ。
数学風に書くと
エリア×方法×時間×完成度=成果
となるのかもしれないけれど、
まぁこの方程式もあまり意味はない。
高校生はやるべきことが多い。
すべてに全力を注ぐことが必ずしもいいとは限らない。
まずは1つ1つを絞り込んでいこう。